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エドワード・ボスコーエン : ミニ英和和英辞書
エドワード・ボスコーエン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エドワード・ボスコーエン : ウィキペディア日本語版
エドワード・ボスコーエン[ちょうおん]

エドワード・ボスコーエン(Edward Boscawen, 1711年8月19日 - 1761年1月10日)は、イギリス海軍提督枢密顧問官庶民院議員。1758年のルイブールの戦い1759年ラゴスの海戦など、18世紀の海戦で数々の勝利を収めたことで知られる。ミノルカ島の海戦の不首尾から軍法会議にかけられ死刑を宣告されたジョン・ビングの執行命令書に署名した士官としても名を残している。
政治面では、1742年からトゥルロ選出の庶民院議員を務めたが、海軍生活が中心であったため、特に目立った活動はしていない。また、1751年から海軍本部委員会の委員、1758年からは枢密院顧問も努めている。そのいずれも終生在任した。
== 海軍入隊と英西戦争 ==
イギリスのコーンウォール州トレゴスナン生まれ。初代ファルマス子爵ヒュー・ボスコーエンとその妻シャーロットの三男である〔''The Naval Chronicle'' vol. 7, p. 181〕。海への憧れから12歳にして海軍に入隊する〔。
1726年4月3日〔Laghton, ''National Biography''〕に60門艦「スパーブ」に乗務、フランシス・ホシェのもと西インド諸島に派遣された〔。英西戦争中の約3年間、ボスコーエンはこの艦に乗務している。次の3年は地中海艦隊のチャールズ・ウェイジャーのもとで「カンタベリー」、「ヘクター」、「ナミュール」に乗務。英西戦争を終結させたセビリア条約締結後にカディスリヴォルノに向かった時にも「ナミュール」に乗務していた。1732年5月25日大尉に昇進、同年8月、かつての勤務艦である地中海艦隊の44門の4等艦「ヘクター」に再乗務した。1735年10月16日まで「ヘクター」に乗務した後、70門の3等艦「グラフトン」勤務に昇進。1736年3月12日、大佐に昇進し〔、ジョン・ノリスによって50門艦「レパード」の臨時指揮官に任命された。この昇進は海軍本部委員会により追認された〔。
1738年6月には20門の6等艦「ショアハム」の指揮権を与えられる〔''The Naval Chronicle'' vol. 7, p. 182〕。次なるスペインとの戦争に備え、西インド諸島に向かうエドワード・ヴァーノンに同行するよう命じられた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エドワード・ボスコーエン」の詳細全文を読む




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