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百年戦争(ひゃくねんせんそう)の第1段階(1337 - 1368年)をエドワード戦争とも呼ぶ。宣戦からブレティニィ条約までの23年間はクレシーの戦い、ポワティエの戦いに代表されるイングランド側の目覚しい勝利であり、ポワティエの戦いではフランス王ジャン2世が捕虜となり、フランスはほとんど無政府状態となり内乱(ジャックリーの乱等)が起こった。フランスは屈辱的な平和条約(カレー条約)を結んだが、その平和は9年間しか持続せず、フランスの巻き返しによる百年戦争第2段階が始まった。 == 低地諸国(1337年 - 1341年) == フランス、イングランド等が中央集権化を強めたのに対して、14世紀の神聖ローマ帝国は求心力を失っており、低地諸国(ネーデルラント)は事実上、独立領邦国家となっていた。これらの小君主はフランス王の影響力の増大に脅威を感じており、1337年8月に低地諸国の多くはイングランドと同盟を組んだが、イングランド王エドワード3世は莫大な支払いを約束しなければならなかった。低地諸侯の中でフランドル伯はフランス王の封建臣下ではあるが、フランドルの毛織物産業はイングランドからの羊毛の輸入に頼っていたため、その立場は微妙だった。フランドル伯ルイ・ド・ヌヴェールは、以前にフランス王に民衆反乱を鎮圧してもらっていたので親フランスの立場であったが、彼の親フランス政策に対抗して、1336年にイングランドがフランドルへの羊毛の禁輸を決定すると、12月には経済状況の悪化に怒った手工業者たちが反乱を起こしフランドル伯を追放した。ヘントを中心とした自治政府が設立され、アルテベルデが首班となった。フランス王フィリップ6世はフランドルに中立を約束させた。 イングランドの国内問題と財政難に阻まれ、エドワード3世がアントウェルペンに渡ったのは1338年7月であった。イングランドの国庫は空に近い状態であり、エドワード3世は同盟諸国に支払う資金を得るためにイタリアの銀行家(バルディやペルッツィなどの)や大小の金融業者から多額の借金をする必要があった。これらの資金調達のためにフランスへの侵攻は遅れた。 イングランドの侵攻の遅れに助けられ、フランスは資金を別の方向につぎ込むことができた。イングランドは統制の取れた艦隊を持っておらず、商船の寄せ集めに頼るしかなかったが、フランスはジェノヴァのガレー船を雇い、彼らを使ってイングランドの海岸地帯を襲撃した。プリマスは襲撃を受け、サザンプトンは略奪され、ガーンジー島は占領された。 1338年にはガスコーニュが攻撃を受けた。ガスコーニュの代官オリバー・インガムは有能な指揮官であったが、イングランドの援軍を期待できず、専守防衛を強いられることになった。1339年4月には重要なアジュネの城ペンやガロンヌのブライ、ブールの2つの市がフランスに占領され、ガスコーニュは北からの攻撃に晒されることになった。 1338年春までフランスの海上における攻撃は続いたが、イングランド側も備えを固め始めたため、しばしば撃退され戦果は上がらなくなった。8月になるとジェノヴァ艦隊内で分配金に関する争いから叛乱が起こり、ジェノヴァ艦隊の大部分はイタリアに戻った。 フランス艦隊の襲撃による被害はさほど大きくは無かったが、対策にかかる費用によりイングランドは他の戦線への資金を欠くようになり、スコットランドにおけるイングランド勢力の状況は非常に悪化した。8月にはスコットランド軍はフォース湾の北における最後のイングランド側拠点であるパースを奪回した。イタリアの銀行からの資金調達は限界に達し、エドワード3世はイングランドの大商人ウィリアム・ド・ラ・ポールからの高利の借金に頼らざるを得なくなった。 フランス侵攻計画の完全な崩壊を避けるためには、エドワード3世は戦果を上げる必要があった。9月にフランスに侵攻したが同盟軍はあまり当てにならず、カンブレー等、いくつかの地域を焼き払ったが、価値のある地点を占領できなかった。1339年10月23日にフィリップ6世に挑戦状を送りラ・シャペルでの決戦を迫ったが、フィリップ6世はこれを回避し、エドワード3世は撤退した。 1339年にはフランドルにおけるアルテベルデの権力は確立し、イングランドとフランドルの関係は一層親密になり、12月には正式に反仏同盟を結ぶ準備ができていた。しかし、中世の封建道徳では、神の恩寵を受けた正統な王に対する反抗は重大な罪と考えられたため、エドワード3世はフランドルとの同盟を確実にし、自らの反乱者と言う汚名を避けるために、1340年1月26日にヘントの市場においてフランス王たることを宣言した。まもなく王妃フィリッパをヘントに残してイングランドに戻り、議会対策に追われた。 1340年になると海上の情勢は変化した。イングランドはジェノヴァに補償金を支払い、フランス海軍に参加しないよう工作した上で、1月にイングランド艦隊はブローニュを襲撃し、フランス艦隊のガレー船を焼き払った。イングランド同様に商船の寄せ集めとなったフランス艦隊は、次のイングランドの襲撃に備えてフランドルの海岸スロイスに集結した。6月24日にスロイスの海戦が起こり、フランス側の18,000人以上の将兵が戦死し、190隻の船が捕獲されて、フランス海軍はほぼ壊滅した。特に乗員の大部分を提供していたノルマンディーにとっては大打撃であり、これ以降、イギリス海峡の制海権はイングランドが握り、フランスのイングランド侵攻は妨げられることになった。 ガスコーニュにおけるイングランド軍もこれで一息つくことができた。フランス南西部の3人の有力貴族の内、アルマニャック伯とフォア伯は長い間の仇敵同士で両者の戦闘が始まった。残るベルトラン・ダルブレは一族、味方を募って公然とイングランドに加担した。彼らの活動は、実際の領土の獲得には至らなかったが、戦闘地域は従来の範囲から拡大することになった。 1340年、フィリップ6世はイングランドの同盟者への攻撃を開始した。5月にエノーを攻撃したが、スロイスの海戦の敗北を聞いて、新たな脅威に対応しなければならなかった。 エドワード3世は軍を二手に分け、片方をロベール3世・ダルトワに率いさせアルトワを攻撃させたが、6月26日のサントメールの戦いに敗北し撤退した。一方、エドワード3世は自ら北フランスの大都市トゥルネーを攻撃したが、包囲は長期化した。9月にフィリップ6世の援軍が到着したため味方の戦意は低下し、9月25日に9ヶ月の休戦条約を結んだ。 休戦期間中に反フランス同盟軍は解体し、フランドル以外の低地諸侯軍は引き上げた。大金を費やした割には、さしたる戦果を上げることができず、イングランドでは反対意見が強まった。スコットランドの大部分は失われ、財政は破綻し、債権の支払いを拒否されたイタリアの銀行家達は破産した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「百年戦争 (1337-1368)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hundred Years' War (1337-60) 」があります。 スポンサード リンク
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