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エド・ウィスコスキー : ミニ英和和英辞書
エド・ウィスコスキー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エド・ウィスコスキー : ウィキペディア日本語版
エド・ウィスコスキー[ちょうおん]

"イージー" エド・ウィスコスキー"Easy" Ed Wiskoski1945年1月10日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーミズーリ州セントジョセフ出身のポーランド系アメリカ人
キャリア後期はアパルトヘイト将校ギミックカーネル・デビアーズCol. DeBeers)のキャラクターで活躍した。近年のハードコア・レスリングに通じるラフファイトを繰り広げたヒールのレジェンドとして、"The Grandfather of Hardcore" の異名を持つ〔。
== 来歴 ==
ノースウェスト・ミズーリ州立大学ではアメリカンフットボールで活動し、NFLシンシナティ・ベンガルズに短期間所属後、1972年にプロレスラーとしてデビュー〔。ベビーフェイスのポジションでNWAミッドアトランティック地区などを転戦後、1975年よりヒールに転向。同年5月31日、地元ミズーリカンザスシティを本拠地とするセントラル・ステーツ地区にて、ジェリー・オーツからNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を奪取。同地区ではディック・ザ・ブルーザーアンドレ・ザ・ジャイアントなどの大物ベビーフェイスとも対戦した〔。
1977年、7月の全日本プロレス初来日を経て、オレゴンおよびワシントン州をサーキット・エリアとする太平洋岸北西部のPNW(パシフィック・ノースウエスト・レスリング)に参戦。11月12日にダッチ・サベージを破ってNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を獲得し、12月7日にはバディ・ローズと組んでムーンドッグ・メイン&ロン・バスから同タッグ王座を奪取した。
1978年はローズとのコンビでサンフランシスコにも進出し、10月25日に同地区認定のNWA世界タッグ王座ディーン・ホー&ロン・スターから奪取。ローズの負傷後はロディ・パイパーを新パートナーに起用し、最終的には同王座の最後のチャンピオン・チームとなった。1980年6月7日にはジョージ・ウェルズを破り、同地区のフラッグシップ・タイトルだったUSヘビー級王座にも戴冠している。
サンフランシスコ地区の閉鎖後はNWAの南部テリトリーを転戦し、1981年オクラホマにて、セントラル・ステーツ地区での抗争相手でもあったマイク・ジョージと組み、7月11日にエディ・ギルバート&リッキー・モートンからトライステート・タッグ王座を奪取。1982年デレク・ドレイパー(''Derek "The Mongoose" Draper'')の変名でフロリダに登場、7月16日にデビッド・フォン・エリックを下して南部ヘビー級王座を獲得した。
1983年1月、ポーリッシュ・プリンス(''The Polish Prince'')と名乗ってニューヨークWWFに登場。フレッド・ブラッシーマネージャーに迎え、当時のWWFヘビー級王者ボブ・バックランドへの新しい刺客としてデビューしたが、数試合のTVテーピングを行ったのみで継続参戦することはなかった。その後は欧州CWA遠征などを経てPNWに復帰し、メガ・マハリシ(''Mega Maharishi'')なる教祖ギミックの異色キャラクターに変身。1985年4月13日にはケンドー・ナガサキをパートナーにパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座に返り咲いている〔。
1986年南アフリカヨハネスブルク出身を自称し、アパルトヘイトを推進する反米主義者の将校カーネル・デビアーズ(''Colonel DeBeers'')に変身してAWAに登場。4月20日にミネアポリスメトロドームで開催されたビッグイベント "WrestleRock 86" ではワフー・マクダニエルに勝利。以降は愛国軍人ギミックのサージェント・スローターをはじめ、スコット・ホールジミー・スヌーカと抗争を展開した。
AWAには団体最末期の1990年まで出場し、ダイヤモンド・ダラス・ペイジポール・E・デンジャラスリーがマネージャーを担当していたこともある。なお、AWA時代の1987年11月にはブルーザー・ブロディのパートナーとして全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦への参加が発表されていたが、ブロディはジミー・スヌーカと組んで出場することになったため、再来日は実現しなかった。
AWA崩壊後はカリフォルニアの新興団体UWF(ハーブ・エイブラハム派)を経て、1992年より古巣のPNWに戻り、ジェシー・バーのファミリーが立ち上げた後継団体のチャンピオンシップ・レスリング・USAにも参戦。ビリー・ジャック・ヘインズブリックハウス・ブラウンレイ・ミステリオ・ジュニアらと対戦し、1994年6月には日本から遠征してきた剛竜馬ともタッグを組んでいる。同団体認定のTV王座も再三獲得し、1997年3月18日にマット・ボーンを破って現役最後となる5回目の戴冠を果たした。
引退後は2001年から2006年まで、オレゴン州ポートランドにてレスリング・スクールをバディ・ローズと共同で運営。メイジャー・デビアーズ(''Major DeBeers'')の名義で北カリフォルニアのインディー団体にも時折出場していた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エド・ウィスコスキー」の詳細全文を読む




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