|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
エド・デラハンティ(Edward James Delahanty, 1867年10月30日 - 1903年7月2日) は、19世紀のアメリカ・メジャーリーグで活躍した左翼手。オハイオ州クリーブランド生まれ。右投げ右打ち。愛称は"Big Ed"(ビッグ・エド)。 == 略歴 == 5人兄弟の長男で、5人全員がプロの野球選手として活躍した経歴を持つ。 1888年5月に、トライステート・リーグのホイーリング球団からフィラデルフィア・クエーカーズに入団する。デビュー当時は内野手・外野手を半分ずつこなしていた。1890年にプレイヤーズ・リーグに1年参加した後、翌年再びフィリーズに戻り、主に外野手として試合に出るようになった。守備での動きは俊敏だったそうで、当時は「ヒューマン・グラスホッパー」の異名ももっていた。 打撃面では1892年に初めて打率が3割を超え、この年リーグ最多の21本の三塁打と長打率リーグ1位の記録を残す。その後1893年に投手-本塁間の距離が60フィート6インチとなるルール改訂によって、デラハンティの打撃成績は飛躍的に向上した。 同年デラハンティはリーグ最多となる19本の本塁打と146打点を挙げる。翌1894年と1895年はいずれも打率が4割を超えた。1896年には二塁打44、本塁打13、打点126(いずれもリーグ最多)をマーク。1899年には自身3度目の4割超えとなる打率.410で首位打者となる。同年の137打点と238安打、55本の二塁打もいずれもリーグ最多であった。 デラハンティは1901年までフィリーズの主軸として活躍していたが、アメリカンリーグ設立後の1902年にワシントン・セネターズ(現ツインズ)に移籍する。この年デラハンティは打率.376で自身2度目の首位打者となる。その後もセネタースの牽引役を期待されていたが、1903年のシーズン中にナイアガラ・フォールズで事故死(詳細下記)。1945年、アメリカ野球殿堂のベテランズ委員会により殿堂入り選手に選出された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エド・デラハンティ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ed Delahanty 」があります。 スポンサード リンク
|