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エバーグレーズの排水と開発()では、アメリカ合衆国フロリダ半島の南部にある大湿地帯、エバーグレーズの開発史を概観する。その始まりは19世紀前半に遡る。第二次セミノール戦争が始まっていた1836年、アメリカ軍の任務はエバーグレーズにいるセミノール族インディアンを探し出して、彼らを掴まえるか殺すことだった。その任務を遂行する過程で、事あるごとにイライラさせられ混乱させられる地域の地図を作る機会が提供された。19世紀の後半に向かって、アメリカ合衆国は拡大と進歩を追及しており、農業に使うためにエバーグレーズから排水することに興味が向けられた。歴史家に拠れば、19世紀の半ばから20世紀の半ばまで、アメリカ合衆国は湿地を除去することに何の問題も感じない時代を過ごしてきた。実際にそれは実行に値する適切なことと見なされていた〔Meindl, Christopher, et al. (December, 2002). "On the Importance of Claims-Making: The Role of James O. Wright in Promoting the Drainage of Florida's Everglades in the Early Twentieth Century", ''Annals of the Association of American Geographers'', 92 (4), p. 682–701.〕。 お定まりの政治と財政的な動機があり、エバーグレーズの地理と生態に関する理解が無いままに、その排水計画の歴史を歪めてきた。エバーグレーズはオーランド近くを水源とする広大な排水流域の一部であり、広く浅いオキーチョビー湖に注いでいる。雨季にこの湖の保水量を超えたときに、平坦で幅広い川を形成し、その長さは100マイル (160 km)、幅は60マイル (97 km) にもなる。オキーチョビー湖から南のフロリダ湾に向けて地形は緩やかな斜面になっているので、水は1日半マイル (0.8 km) の速度で流れる。エバーグレーズに人が入って来る以前、このような排水の体系がフロリダ半島の南3分の1に広がっていた。この地域から排水しようという最初の試みは、1881年、不動産開発業者のハミルトン・ディストンによるものだった。ディストンが出資して作らせた運河は成功しなかったが、そのために土地を購入したことで、地域の経済成長を刺激し、人口を増やした。それが鉄道界の大立者ヘンリー・フラグラーをして鉄道を敷かせることになった。フラグラーはフロリダ半島の東海岸に沿って鉄道を敷き、海を伝ってキーウェストまで開発の手を伸ばした。この鉄道に沿って町が成長し、農地が耕された。 フロリダ州知事ナポレオン・ボナパルト・ブロワードは、1904年の選挙運動の間にエバーグレーズから排水することを約束し、後にはその計画がディストンのものよりもさらに実効あるものになった。ブロワードの約束は土地ブームに火を点け、技術者の報告におけるあからさまな誤り、不動産開発業者からの圧力、南フロリダ全体の急成長する観光産業によって高まった。人口が増えるとハンターの流入にも歯止めが効かず、多くの水鳥(羽毛のために狩られた)、アリゲーターなどエバーグレーズの多くの動物に破壊的な影響を与えた。 1926年と1928年の激しいハリケーンが南フロリダに壊滅的な被害を与え、オキーチョビー湖から洪水が起きたことで、アメリカ陸軍工兵司令部が湖の周りに堤を築くことになった。1947年のハリケーンでも洪水が起こり、南フロリダ全体に前例の無いような運河網が建設された。第二次世界大戦後に新たな人口ブームが起こり、中央・南フロリダ洪水制御計画が創設され、エバーグレーズは運河と水流制御装置によって細かく分割され、それで農地や新開発の都会に水が配られた。しかし、1960年代後半、エバーグレーズ国立公園に隣接して大きな空港を建設する提案があったことが契機になって、国民の注意はエバーグレーズの土地を開発することよりも、元に戻すことの方に向けられた。 == 探検時代 == アメリカ人とエバーグレーズとの関わりは第二次セミノール戦争(1836年-1842年)に始まっており、これは金も時間もかかり、大変不人気な紛争だった。アメリカ合衆国は3千ないし4千万ドルを費やし、1,500ないし3,000人の人命を失った。アメリカ軍はセミノール族インディアンをエバーグレーズに追い込み、彼らを見つけて戦いに勝利した後に、オクラホマのインディアン準州に移動させる任務が与えられていた。この戦争で約4,000人のセミノール族が殺され、あるいは移動させられた〔Douglas, p. 245.〕〔Dovell, J. E. (July 1947). "The Everglades Before Reclamation", ''The Florida Historical Quarterly'', 26 (1), p. 1–44.〕。アメリカ軍はエバーグレーズで遭遇する条件に全く備えが無かった。ソーグラスで衣類を破られ、でこぼこした石灰岩の床でその長靴を消耗させ、蚊の大群に襲われた。兵士達の脚、足、腕がソーグラスで傷つき、壊疽に罹り、多くの者の生命あるいは脚を奪った。多くの者は蚊に起因する病気で死んだ。1842年、ある兵卒は泥の中を歩いた後に、極度の疲労の中で死んだ〔。トマス・ジェサップ将軍は1838年に、戦争を長引かせることを止めさせようとしていたアメリカ合衆国陸軍省に宛てた手紙の中で、陸軍はエバーグレーズの地形に負けていることを認めた〔。 フロリダのアメリカ合衆国に対する価値に関する意見は複雑なものがあった。湿地が使いようも無く、恐ろしい動物がいると考える者が居れば、国の繁栄のための神からの贈り物だと考えた者も居た〔Grunwald, p. 31–32.〕。1838年「アーミー・アンド・ネイビー・クロニクル」に掲載されたコメントは、下記のように南フロリダを将来開発する案を支持していた。 気候は最も快適である。しかし、実際に観察したことからの欲求は、土壌についてそれほど満足できるとは言えないが、周辺の植生の外観からその一部は少なくとも肥沃であるに違いない。先住民がその定着場所から追い出されるときは常に、最終的にそうならなければならないが、我が国の人々の企業精神が直ぐにも耕作に最適な部分を発見し、現在は荒れ地で生産性の無いエバーグレーズも庭園のような花園になるであろう。このエバーグレーズは、雨季の豊富な雨によって水が溢れ出すという理由で、夏の間に人が住めないように見るのが一般的だが、多くの湖に出ているように、これら浸水が川の自然の流れに対する障害物によって生じ、あるいは増されていることを証明されるならば、アメリカの産業はこれら障害物を排除できるだろう。〔White, Frank (October, 1959). "The Journals of Lieutenant John Pickell, 1836–1837", ''The Florida Historical Quarterly'', 38 (2), p. 143–172.〕 南フロリダに軍隊が進行したことで、この国の中でも理解が進んでいなかった地域の地図化の機会を提供した。少なくとも1823年の時点で、公式報告書は大きな内陸の湖の存在を疑っており、それは1837年のオキーチョビー湖の戦いで陸軍がセミノール族に遭遇した時まで、そのままだった〔Lodge, p. 110〕。1840年、ウィリアム・ハーニー大佐は、自分に対してまた弾薬庫に対して、繰り返し急襲を受けたことに仕返しするために、エバーグレーズに遠征隊を率いて入り、チェキカという名の酋長を追った。ハーニーに従ったのは16隻のカヌーに乗った90名の兵士だった。「セントオーガスティン・ニューズ」に掲載されたこの旅に関するある兵士の話が、一般大衆に向けてエバーグレーズについて書かれた最初の記事になった。この匿名の記者はチェキカの追跡や、通って行った地形について「これに似たような地形について私はどこにも聞いたことがない。草と緑の木で埋められた広大な海のように見える。悪辣なインディアンのために撤退を目指すとしても、白人がそこから彼らを追い出そうとすることはできないだろう。」と記していた〔Tebeau, p. 66–67.〕。 軍事的に行き詰まりになったことについて最終的な非難の対象は、軍事的な準備、物資、指揮力あるいはセミノール族の優れた戦術にはなく、フロリダの入って行けない地形にあった。ある陸軍軍医は、「そこは住むためには実に最も恐ろしい地域であり、インディアン、アリゲーター、サソリ、蛙、その他忌まわしい爬虫類全てにとっては完全な天国だった。」と記していた〔Grunwald, p. 42.〕。その土地は脅威あるいは憎しみの異常な反応を引き起こすように見られた。1870年、ある著作家がマングローブの森について、「そこにありながら滅多に見られることの無い孤立した場所に起こる素晴らしい植生のカーニバルを持っていたとする、自然最大の展示の廃棄物」と表現していた〔Tebeau, p. 71.〕。1885年には狩猟者、博物学者および収集家の1隊がこの地域に入り、初期マイアミ住人の17歳になる孫息子も連れて行った。シャーク川に入ると直ぐに、その景色が若者を驚かせ「その場所は野生で寂しく見えた。3時頃に、ヘンリーの神経に取り入ったように見え、我々は彼が泣いているのを見た。彼はその理由を告げようとしなかった。単に怯えているだけだった。」と記されていた〔Tebeau, p. 75–76.〕。 1897年、ヒュー・ウィロビーという探検家がハーニー川河口からマイアミ川まで、1隊と共にカヌーで移動して8日間を過ごした。かれはその観察したことを記し、「ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット」に送った。ウィロビーは、オキーチョビー湖ではその水域が健康的で有益である、多くの泉と「多かれ少なかれ」1万匹のアリゲーターがいると書いていた。この隊はシャーク川の近くで夥しい数の鳥と出逢い、「数百を殺したが、それでも戻り続けていた」と記した〔McCally, p. 65–69.〕。ウィロビーは、この国の他の部分の多くが探検され地図化されたが、フロリダのこの部分が残っていることを指摘し、「我々には長さ130マイル、幅70マイルの土地があり、アフリカの心臓部と同じくらい白人にはあまり知られていない」と記していた〔Stephan, L. Lamar (December, 1942). "Geographic Role of the Everglades in the Early History of Florida", ''The Scientific Monthly'', 55, (6) p. 515–526.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エバーグレーズの排水と開発」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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