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エピカルモス : ウィキペディア日本語版
エピカルモス

コスのエピカルモスEpicharmus of Kos, ギリシャ語)は古代ギリシア劇作家哲学者。エピカルオスが生きていたのは、おおよそ紀元前540年から紀元前450年までの100年間と信じられている。最初の喜劇作家たちの1人で、ドーリア人シケリア人の喜劇形式を考案したとよく言われる。アリストテレスは、エピカルモスとポルミス(Phormis)が喜劇の筋(muthos)を発明したと言っている〔アリストテレス『詩学』5.1449b5〕。エピカルモスに関する情報のほとんどはアテナイオスディオゲネス・ラエルティオスの著作とスーダ辞典に依っている。長文のテキストの断片がいくつかのパピルスの中に見つかったが、穴だらけで解読することは困難である。しかし、古代の大勢の古代の著作家たちの本の中に、注釈や引用がある。たとえば、プラトンは『ゴルギアス』〔プラトン『ゴルギアス』505e〕と『テアイテトス』の中でエピカルモスに言及し、『テアイテトス』の中ではソクラテスに、エピカルモスは喜劇の、そしてホメロスは悲劇の、それぞれの詩の第一人者と言わせている〔プラトン『テアイテトス』152e〕。その他の古代の著作家たちによるエピカルモスの引用は、Pickard-Cambridgeの『Dithyramb, Tragedy, Comedy』〔cf. A. W. Pickard-Cambridge, Chapter IV, beginning on p. 230〕や、Kassel and Austinの『Poetae Comici Graeci』(2001年)の中に収められている。'')は古代ギリシア劇作家哲学者。エピカルオスが生きていたのは、おおよそ紀元前540年から紀元前450年までの100年間と信じられている。最初の喜劇作家たちの1人で、ドーリア人シケリア人の喜劇形式を考案したとよく言われる。アリストテレスは、エピカルモスとポルミス(Phormis)が喜劇の筋(muthos)を発明したと言っている〔アリストテレス『詩学』5.1449b5〕。エピカルモスに関する情報のほとんどはアテナイオスディオゲネス・ラエルティオスの著作とスーダ辞典に依っている。長文のテキストの断片がいくつかのパピルスの中に見つかったが、穴だらけで解読することは困難である。しかし、古代の大勢の古代の著作家たちの本の中に、注釈や引用がある。たとえば、プラトンは『ゴルギアス』〔プラトン『ゴルギアス』505e〕と『テアイテトス』の中でエピカルモスに言及し、『テアイテトス』の中ではソクラテスに、エピカルモスは喜劇の、そしてホメロスは悲劇の、それぞれの詩の第一人者と言わせている〔プラトン『テアイテトス』152e〕。その他の古代の著作家たちによるエピカルモスの引用は、Pickard-Cambridgeの『Dithyramb, Tragedy, Comedy』〔cf. A. W. Pickard-Cambridge, Chapter IV, beginning on p. 230〕や、Kassel and Austinの『Poetae Comici Graeci』(2001年)の中に収められている。
==生涯と作品==
後世のあまりあてにできない注釈家たちがいろいろと候補地を出してはいるが、エピカルモスの出生地はわかっていない。『スーダ辞典』では、エピカルモスはKrastosのシケリア人都市の生まれ、もしくは、そこから来たシラクサ人だと書いている〔『スーダ辞典』E 2766〕。一方、ディオゲネス・ラエルティオスは、エピカルモスはKamari湾(:en:Bay of Kamari)に面した、現代のKefalos(:en:Kefalos)近郊にあった、コスの古代の首都アスティパライア島(:en:Astypalaia)の生まれだとしている〔ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』VIII.78〕。ディオゲネス・ラエルティオスはさらに、エピカルモスの父は傑出した医者ヘロタレス(Helothales)で、エピカルモスが生まれて2、3ヶ月たったばかりの時に、家族はシケリアのメガラ(:en:Megara)に移ったとも書いている。しかし、Asclepiadによると、成人したエピカルモスをピュタゴラスの弟子になったことになっている〔cf. P.W.Buckham, p.164。「しかし、エピカルモスは哲学者であり,ピュタゴラス学派であった〕〔Pickard-Cambridge, p.232。「エピカルモスはピュタゴラスの聞き手だった」〕。すべての伝記情報は疑わしいものとして取り扱わなければならない〔その他の出生にまつわる情報と議論については、Pickard-Cambridgeの『Tragedy, Comedy, Dithyramb』やRodriguez Noriega Guillenの『Epicarmo di Siracusa: Testimonios y Fragmentos』Bryn Mawr Classical Review 2005.10.24 、Kassel and Austinの『Poetae Comici Graeci』などに詳しく書かれてある。〕。事実らしいのは、エプカルモスは紀元前484年以降の生まれで、シラクサに住み、そこで僭主ゲロン(:en:Gelo)とヒエロ1世(:en:Hiero I of Syracuse)のために詩人として働いていたということである。エピカルモスの詩のテーマは、酩酊や怠惰に対する説教から、神話の戯作のような正統的とはいえない話題まで、幅広かった。しかも詩だけにとどまらず、哲学、医学、自然科学、言語学、倫理学の本も書いた。哲学・道徳の授業の中で、徳の絶え間ない訓練は遺伝に打ち勝つことができ、生まれに関係なく誰でもすぐれた人間になる可能性を持っている、とエピカルモスは説いた。エピカルモスは90歳代で亡くなった(ルキアノスによると97歳だったという〔ルキアノス『Macrobii』25〕)。
ディオゲネス・ラエルティオスは、住民たちによってエピカルモスに献呈されたブロンズ像がシラクサにあったとし、そこにはテオクリトスが次のような銘を記したと書いている〔 テオクリトス 『Epigrams』17 Theocritus, translated into English Verse by Theocritus 〕。「明るい太陽が他の星々にまさるように、海が川の流れを遙かに凌駕するように、賢者エピカルモスは人々を超えている、その彼に寛容なシラクサは冠を戴かせた」。テオクリトスのエピグラム18〔AP IX 60; Kassel and Austin Test. 18〕もまたエピカルモスの栄誉を称えて書かれたものである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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