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エマヌエル・レオニエヴィチ・メッテル(ラテン文字表記:Emmanuel Leonievich Metter, 1878年2月28日〔長廣敏雄監修の小冊子『関西音楽界の父 エマヌエル・メッテル』(NHK大阪放送局編)では1884年2月28日生まれとしているが、岡野弁は現地取材の上、ハリコフ帝国大学学生名簿に基づいてこれを誤りとしている。『メッテル先生』p.32-33を参照。〕 - 1941年8月28日)はウクライナ出身の指揮者。 ヘルソンにてユダヤ教を信仰する商人の家庭に生まれる。本名メナヒム・マン・イウドヴィチ・メッテル。1897年8月26日、ハリコフ帝国大学医学部に入学するも、1898年9月7日、同大学法学部に転部。1906年にハリコフ帝国大学法学部を卒業し、同年9月、聴講生としてサンクトペテルブルク音楽院に入学し、1907年5月に中退〔長廣敏雄監修の小冊子『関西音楽界の父 エマヌエル・メッテル』(NHK大阪放送局編)では、1928年11月23日付『大阪朝日新聞』の記事に基づいて1910年ペテルブルク音楽院卒業としているが、岡野弁は現地取材の上、音楽院卒業者名簿にメッテルの名が記載されていないことを確認した。『メッテル先生』p.61を参照。〕。カザンの歌劇場で指揮者を務めていた時期にプリマ・バレリーナのエレナ・オソフスカヤと結婚。のちハルビンに亡命してハルビン交響楽団で指揮活動を行ったが、亡命の時期について岡野弁は1916年頃、ロシア革命勃発の直前ではないかと推測している〔岡野弁『メッテル先生』p.89(リットーミュージック、1995年)〕。 宝塚音楽歌劇学校で教授を務めていた妻エレナを追って1926年3月に来日。神戸市中山手通や東灘区の深江文化村に住み、ハインリヒ・ヴェルクマイスターの後任として大阪放送管弦楽団を指揮。また京都帝国大学音楽部のオーケストラ(現京都大学交響楽団)の常任指揮者を10年以上務めた。門人に朝比奈隆や服部良一、酒井協、齋藤登、長廣敏雄、宮澤縦一、吉村一夫、小川昂、溝部国光などがいる。 1939年10月6日、横浜港から渡米。1941年8月28日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市ウェストハリウッドにて心臓病のため死去。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エマヌエル・メッテル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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