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エメーリヒ・カールマン : ミニ英和和英辞書
エメーリヒ・カールマン[かー]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car

エメーリヒ・カールマン ( リダイレクト:エメリッヒ・カールマン ) : ウィキペディア日本語版
エメリッヒ・カールマン[かー]

エメリッヒ・カールマン(Emmerich Kálmán、1882年10月24日 - 1953年10月30日)は、ハンガリー出身のオーストリア作曲家。ハンガリー名はカールマーン・イムレ(Kálmán Imre)であるが、ドイツ風にエメリッヒ・カールマンと名乗り、世界的にこの名で有名である。日本で発売されているCDやDVD、文献などもほとんどこの表記によっている。
== 生涯 ==
ハンガリーバラトン湖南部のシオーフォクにてユダヤ系の家庭に生れる。もともとは演奏会ピアニストとして立つ意向であったが、関節炎を患い、作曲に専念した(父親が破産したためとも言われる)。ブダペストフランツ・リスト音楽アカデミーにてハンス・ケスラーに師事、バルトークゾルタン・コダーイの同窓生となった。初期の交響詩は好評だったが、出版することはかなわなかった。しかしながらユーモラスなキャバレー・ソングの人気によって、オペレッタの作曲に進んだ。
最初の成功したオペレッタ『愉快な騎兵』(''Tatárjárás''、独語名は ''Ein Herbstmanöver'' )は、1908年2月22日にブダペストにおいて初演された。その後ウィーンに移り、『チャールダーシュの女王』(''Die Csárdásfürstin'')や『伯爵令嬢マリツァ』(''Gräfin Mariza'')などの作品によって世界的な名声を収めた。
カールマンはフランツ・レハールとともに、20世紀初頭における「ウィンナ・オペレッタ銀の時代」の代表的な作曲家と看做されている。カールマンは、ウィンナ・ワルツとハンガリーのチャールダーシュの融合により名声を馳せた。詞・台本こそドイツ語のものを用いたものの、両親ともドイツ系でチェコ育ちでもあるレハールに比べハンガリー色は遥かに濃い。一方、カールマンはチャイコフスキー管弦楽法を模範としているものの、ポリフォニーの構成や旋律法においては、プッチーニを理想とした。また、新時代の軽音楽としてのフォックストロットを採り入れ、ドラム・セットを用いたダンス・バンドに近い響きも試みている。
第二次世界大戦中はナチス・ドイツの弾圧を避けてアメリカ合衆国に渡り、カリフォルニア州に定住し、1942年市民権を得てアメリカに帰化した。1949年ニューヨークを発ちパリに渡り、同地で他界した。
日本では長らく知名度の低い作曲家の一人であり、LP時代の終わりごろになってようやく『チャールダーシュの女王』の全曲レコードが初発売された程度であったが、ウィーン・フォルクスオーパーの引越し公演などを契機に1980年代から人気が高まり、現在は欧米に劣らず人気を保っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エメリッヒ・カールマン」の詳細全文を読む




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