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エリザ・ルアマー・シドモア(、1856年10月14日 - 1928年11月3日)は、アメリカの著作家・写真家・地理学者。ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事となった。1885年から1928年にかけて度々日本を訪れた親日家であり〔、日本に関する記事や著作も残している。ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜並木を作ることを提案した人物である。 名前のカナ転記については、に対してエライザやイライザ、に対してシッドモアやスキッドモアなどの表記揺れがある。 == 生涯 == 1856年10月14日、アイオワ州に生まれ〔出生地は1878年4月1日、1894年7月27日、1903年9月28日のパスポート申請書、及び1923年7月の横浜発シアトル行乗船者リストによる。出生した1856年の出生日以前に行われたアイオワ州勢調査を見ても、シドモア家はアイオワ州クリントンに在住している。〕、オーバリン大学に学ぶ。旅行に関心を抱いたのは、1884年から1922年まで極東に務めた生え抜きの外交官の兄ジョージ・シドモアに因る所が大きい。エリザはしばしば兄の任務に同行し、外交官という地位を借りて、一般の旅行者にはアクセスできない地域へも渡航することができた。 1885年には初著『アラスカ、南海岸とシトカ諸島』(''Alaska, Its Southern Coast and the Sitkan Archipelago'')を刊行。1890年には設立間もないナショナルジオグラフィック協会に参画して正規の記者となり、後に最初の女性理事となった。 東洋への旅行も引き続き行い、これを基に『日本・人力車旅情』(''Jinrikisha Days in Japan'')を著し、1891年刊行された。続けて短編ガイド『西回り極東への旅』(''Westward to the Far East''、1892年)を出す。ジャワ島への旅は『ジャワ、東洋の園』(''Java, the Garden of the East''、1897年)にまとめられ、また中国・インドへも訪れて『ナショナル・ジオグラフィック・マガジン』へ数度寄稿、また『中国、悠久の帝国』(''China, the Long-Lived Empire''、1900年)、『冬のインド』(''Winter India''、1903年)の2作を著した。 1896年には明治三陸地震津波の被災地に入って取材し、"The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan"を『ナショナル・ジオグラフィック・マガジン』1896年9月号に寄稿している〔〔"The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan"本文 〕。英語文献において「津波」 ''Tsunami''という言葉が用いられた、現在確認できる最古の例とされる〔History Of Tsunami: The Word And The Wave ナショナル・パブリック・ラジオ、2011年3月18日。〕。 日露戦争期間中にも日本に滞在したが、これが知られる限り唯一のフィクション『ハーグ条約の命ずるままに』(''As the Hague Ordains''、1907年)の基礎となった。この作品は、ロシア人俘虜となった夫に松山市の俘虜用病院で再会する妻の手記という形を取ったものである。 『ハーグ条約の命ずるままに』の後、エリザが新著を出すことはなく、『ナショナル・ジオグラフィック』への寄稿も徐々に減っていった。最後の記事は1914年の「日本の子どもら」(''Young Japan'')と題するものだった。1928年11月3日、ジュネーブで死去。。 横浜外国人墓地に墓所がある〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エリザ・シドモア」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Eliza Ruhamah Scidmore 」があります。 スポンサード リンク
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