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エリザベス・キース(Elizabeth Keith、1887年 - 1956年4月)は、イギリスの女性版画家。 == 来歴 == スコットランドに生まれる。キースは独学で水彩画などを描いていた。1915年に28歳となったキースは、東京で『新東洋(The New East)』という雑誌を刊行していたロバートソン・スコット(1866年〜1962年)という男性と既に結婚していた姉のエルスペット(1875〜1956)を訪ねて初来日した。そこで日本の風景や風俗が実に絵画的であることに惹かれ、浮世絵の技法を学んだ。以降9年間に及んだ長期滞在期間中と、1929年から1933年に再来日をした際に、姉と一緒に日本を始め、韓国、中国、シンガポール、フィリピン、東南アジアなどを旅行し、各国の風景や人々の極めてありふれた日常を木版画に残しており、1938年頃までに100点以上の作品を残している。 キースは1917年11月22日から24日の3日間、義兄ロバートソン・スコットの会社、新東洋社から『苦笑して我慢して』(慶応義塾図書館所蔵)という風刺画集を刊行、華族会館(現・霞会館)において1冊5円として頒布会を行っている。この画集ではヘンリー8世姿の後藤新平、「お嬢ちゃん」と題された着物の娘姿の新渡戸稲造、「青い鳥」と題された米国大使参事官のウィラー、酋長姿のイギリス大使グリーンのほか、徳川家達など62名の人物が風刺をもって描かれている。この頒布会は第一次世界大戦の最中であった当時、赤十字社主催のチャリティーとして、傷病兵救助のための義援金を集める目的で行われた。この展示会がキースにとって画家として初めての展覧会であり、同時に多くの寄付金を集めることができ大成功を収めた。 1919年に、三越において朝鮮半島を描いた水彩画の個展を行った時に、キースは版元の渡辺庄三郎と出会い、木版画の制作を薦められ、同年から木版画を作り始めている。同年三・一運動の勃発直後、姉とともに初めて韓国を訪れ、3か月間滞在してからは韓国に関心を持ち始めた。そして、韓国に滞在中、キースは韓国人の生活ぶりに深い興味を持ち、ソウル、ウォサン、咸興、平壌、リンガンサンなどを旅しながら、各地の風景と風俗を主題に作品を制作した。キースは1921年9月20日と22日の両日間、ソウルの長谷天井(現・小公洞)の銀行集会所で第1回個展を開催、1934年2月頃には三越(現・新世界)百貨店画廊で第2回個展を開催したことがあり、東京においても韓国を主題にした作品で展示会を開いている。 1925年に描かれた新版画「藍と白」では、陶器店のショーケースを眺める女性が描かれており、店の暖簾、店頭の染付、女性がさす和傘や浴衣など藍色と白の組み合わせにより、日本の夏の日常の様子を巧みに捉えている。さらに店のショーケースには、葛飾北斎の錦絵「神奈川沖浪裏」が飾られており、キースが北斎の藍摺「富嶽三十六景」を強く意識し、また、北斎のことを敬慕していたと思われる。また、1928年にはアメリカにおいて展覧会を開いている。キースの作品は優れた描写力と原色による新鮮で装飾的な色彩、安定した構図など鮮やかな臨場感を与えるものであった。彼女は日本で浮世絵を学んだ経験をもつが、韓国の風俗を描いた作品からはその影響を全く感じさせないほどに韓国的な線描になっている。「正月の買物(ソウル)」に描かれた母子を見ると、同時期に活躍したヘレン・ハイドの作風にも通じる点がみられる。その後、第二次世界大戦により、日本が欧米諸国に批判されるなか、1956年、ロンドンで失意のうちに没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エリザベス・キース」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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