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エリザベタ・コトロマニッチ(ボスニア語:Elizabeta Kotromanić, 1340年 - 1387年1月16日)は、ハンガリー王兼ポーランド王ラヨシュ1世の2番目の妃。ハンガリー語名コトロマニッチ・エルジェーベト(Kotromanić Erzsébet)、ポーランド語名エルジュビェタ・ボシニャチュカ(Elżbieta Bośniaczka)。娘マーリア女王の摂政を務めた。 現代の歴史家たちはエリザベタをしたたかな女王として描くことが多い。彼女は同時代人から、有能だが娘の地位を守るために政治的策謀を駆使した冷酷な政治家と見られていた。エリザベタの死後、マリア・テレジアが即位するまでハンガリーを実質的に統治した女性支配者は現れなかった。 == 生涯 == エリザベタの父親はボスニア太守、コトロマニッチ家の家長、ボゴミル派の流れをくむボスニア教会の信徒だったスティエパン2世(1312年 - 1353年)である。母親エルジュビェタはポーランド王ヴワディスワフ1世の姪孫で、ローマ・カトリック教会の信徒であった。エリザベタは両親にとって成長した唯一の子供だった。ただし、一部の歴史家はツェリェ伯夫人カタリナという女性が、エリザベタの姉妹だと主張している。父親を通じて、エリザベタはハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘カタリンの曾孫にあたり、また母親を通じて、ハンガリー王妃フェネンナの姪孫にあたった。 スティエパン2世はセルビア皇帝ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンから、エリザベタを自分の息子と結婚させてほしいという申し出を受けたが断った。自分の領土が、エリザベタの花嫁持参金という形でドゥシャンの帝国に吸収されるのを望まなかったのである。スティエパン2世の領国は甥のトヴルトコ1世に受け継がれたが、1357年、トヴルトコは領国をエリザベタの夫ラヨシュ1世に明け渡している。 ハンガリー王ラヨシュ1世の母親エルジュビェタは、ボスニア太守にエリザベタという名の幼い娘がいることを知ると、彼女を養育したいのでハンガリー宮廷にすぐ連れてくるよう要求した。スティエパン2世は最初ためらっていたが、結局は娘を手放した。エリザベタがハンガリー宮廷で3年間暮らした後、王母はスティエパン2世をハンガリーに呼びつけ、エリザベタとラヨシュ国王との結婚について話し合いをした。ラヨシュの最初の妃マルガレーテは、子供を授かるまえに早世していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エリザベタ・コトロマニッチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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