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エリシュカ・プシェミスロヴナ : ミニ英和和英辞書
エリシュカ・プシェミスロヴナ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


エリシュカ・プシェミスロヴナ : ウィキペディア日本語版
エリシュカ・プシェミスロヴナ

エリシュカ・プシェミスロヴナ(Eliška Přemyslovna, 1292年1月2日 - 1330年9月28日)は、ボヘミア王およびルクセンブルク伯ヨハンの最初の妃。ポーランド王も兼ねたボヘミア王ヴァーツラフ2世の娘で、母はドイツ王ルドルフ1世の娘ユッタ。エリシュカはチェコ語名で、ドイツ語名ではエリーザベト(Elisabeth)、ポーランド語名ではエルジュビェタ(Elżbieta)。
ヴァーツラフ3世は1301年にハンガリーの王位につき、父ヴァーツラフ2世が1305年に死去すると代わってポーランドとボヘミアの王位を継承したが、翌1306年に暗殺されて、プシェミスル朝最後の王となった。その後、ポーランドではピャスト朝が復活し、ハンガリーではバイエルン公オットー3世の短い在位の後にアンジュー朝が興った。ボヘミアでは、エリシュカの姉アンナと結婚したケルンテン公ハインリヒ6世と、ヴァーツラフ2世の後妻リクサ・エルジュビェタと結婚したオーストリア公ルドルフ3世(王女エリシュカの母方の従兄に当たる)が王位を争った。
ルドルフは1307年に戦病死したが、ケルンテン公の即位を認めないボヘミア貴族の画策によって、ルクセンブルク家神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の息子ヨハンをエリシュカと結婚させ、ボヘミア王に迎えることが取り決められた。1310年、ヨハンは軍勢とともにボヘミア入りし、エリシュカとプラハで結婚した。ケルンテン公夫妻はケルンテンへ逃れた。翌1311年、ヨハンの戴冠式が行われた。
エリシュカはヨハンとの間に4男3女をもうけた。
* マルガレーテ(1313年 - 1341年) バイエルン公ハインリヒ14世と結婚。
* ユッタ(ボンヌ、1315年 - 1349年) フランス王ジャン2世と結婚。
* カール4世(1316年 - 1378年) 神聖ローマ皇帝およびボヘミア王。
* オットカール(オットー、1318年 - 1320年)
* ヨハン・ハインリヒ(1322年 - 1375年) モラヴィア辺境伯。
* アンナ(1323年 - 1338年) オーストリア公オットー(ルドルフ3世の弟)と結婚。
* エリーザベト(1323年 - 1324年) アンナの双子の姉妹。
夫ヨハンが外国人であり、また不在がちであったことから、プシェミスル家の王女であるエリシュカは、ボヘミアの貴族たちによって政治的に担ぎ出されることになった。これに対してヨハンは、エリシュカが貴族と陰謀を画策したとして、1319年に長男で3歳になるヴァーツラフ(のちのカール4世)をエリシュカから引き離した。しかし、ヨハンはその後もエリシュカとの間に3子をもうけている。
1330年にエリシュカが死去した後、ヨハンは1334年にブルボン公ルイ1世の娘ベアトリス(ベアトリクス)と再婚した。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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