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エリソン・ショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka, 日本名:鬼塚 承次, 1946年6月24日 - 1986年1月28日)は、アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士である。 アメリカ宇宙計画初のアジア系宇宙飛行士で、アジア系宇宙飛行士としてはソ連のソユーズで飛行したベトナムのファム・トゥアン、モンゴルのジェクテルデミット・グラグチャ、インドのラケッシュ・シャルマに次ぎ4人目である。 == 生涯・人物 == 1946年6月24日、アメリカ合衆国ハワイ州ハワイ島コナで、コーヒー農家を営む父の鬼塚正光と母の光江の間に4人姉弟3番目の長男として生まれる。父は福岡県、母は広島県にルーツを持つ日系2世である。 第二次世界大戦で戦った日系人部隊の話を幼少期より聞き覚え、生涯を通じて意識する。小学生から高校生までボーイスカウトで野球部や新聞部員として活動し、最高位のイーグルを授かる。小学生時代、ユーリ・ガガーリンの宇宙飛行を見て宇宙に憧れ、ロケット実験と称する花火悪戯を、母親は驚くも叱咤しなかった。 1964年、コロラド大学へ入学して航空宇宙工学を専攻し、奨学金を得てアメリカ空軍予備役将校訓練課程を受ける。在学中の1968年2月20日、父の死去に母親を心配して大学を辞めハワイへ戻る決心をするも、勉学の継続を母親が促す。 1969年、大学卒業時に空軍少尉を授かる。卒業翌日、大学時からの日系人の恋人と結婚して後に二人の娘を儲ける。空軍エンジニアを務めながら、アポロ11号月面着陸のテレビ中継に影響されて宇宙飛行士を目指す。 1978年、スペースシャトル計画第一期飛行士候補へ応募し、8079人の志願者から同期35人と共に選出される。スペースシャトル・チャレンジャー号乗組員として選抜されるが度々打ち上げ延期になる。 1983年6月13日、自身のルーツを探したい旨の記事が西日本新聞に掲載されると200件超の情報が寄せられ、祖父母の墓を見出して血縁親族の所在も判明する。6月24日、家族と共に父方故郷の福岡県浮羽郡浮羽町(現・うきは市)に墓参して東京も訪れる。 1985年1月24日、STS-51-Cミッションでディスカバリーの搭乗運用技術者として搭乗する。同乗のアメリカ空軍大佐曰く、箸で日本料理を食べ、日の丸の鉢巻や旗、ハワイのマカダミアナッツやコナ・コーヒーを持ち込み、ハワイアン音楽をかけていたという。 1986年1月28日、STS-51-Lミッションでチャレンジャーの搭乗運用技術者として搭乗し、チャレンジャー号爆発事故により39歳で殉職する。 本人を称え、ハワイ島マウナ・ケア山の「マウナケア展望台ビジターインフォメーションステーション」が「オニヅカセンター」と名付けられ、コナ国際空港にある「オニヅカ・スペースセンター」に宇宙服などが展示されていて、またカリフォルニア州にオニヅカ空軍駐屯地が所在する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エリソン・オニヅカ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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