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エリック・ギル(''Arthur Eric Rowton Gill'' もしくは''Eric GIll'', 1882年2月22日 - 1940年11月17日)はイギリスの彫刻家、タイポグラファー(書体デザイナー)、エッチングの版画家。イギリスにおけるアーツ・アンド・クラフト運動に参画した。 ==略歴== エリック・ギルは1882年、旧サセックス州(現イースト・サセックス州)のブライトンに生まれ、その後一家はチチェスターへと引っ越した。エリックはチチェスター工芸大学(Chichester Technical and Art School)で学び、1900年に教会建築の専門家であるW.D.カロエ(''W.D. Caroe'')の下で建築を学ぶためロンドンへと移り住んだ。そこでの研修に嫌気がさした彼は、ウェストミンスター技術研究所(''Westminster Technical Institute'')で石積みの夜間クラスを、また、ロンドン地下鉄の書体開発者エドワード・ジョンストン(''Edward Johnston'')がいた中央美術工芸学校(''Central School of Arts and Crafs'')でカリグラフィーのクラスを受講するようになる。 1904年にエセル・ヘスター・ムーア(1878年 - 1961年)と結婚し、1907年に一家はサセックスのディッチリングにある''Sopers''と呼ばれた家に移り住んだ。ディッチリングはその後、ギルに影響を受けたアーティスト達のコミュニティーの中心地となる。ギルはその地で彫刻の制作を始めた。そして「母と子(''Mother and Child'', 1912年)」という作品で初成功を収めた。 1913年には村から北へ2km程離れたディッチリング・コモン(''Ditchling Common'')のホプキンズ・クラック(''Hopkin's Crack'')という場所に引っ越した。1914年、ロンドンのウェストミンスター大聖堂の十字架の道行(キリストが十字架を背負い歩く場面)の彫刻を制作した。同年、彼はタイポグラファーのスタンリー・モリスンと出会った。戦後はヒラリー・ペプラー(''Hilary Pepler'')やデスモンド・チュート(''Desmond Chute'')と共に、''The Guild of St. Joseph and St. Dominic''をディッチリングに設立した。生徒の中には、ギルの娘ペトラと付き合うことになるデビッド・ジョーンズ(''David Jones'')の姿もあった。 1924年、彼はウェールズの''Capel-y-ffin''に移住し、新たにワークショップを立ち上げ、ジョーンズら弟子達もこれに従った。1925年にパーペチュア(''Perpetua'')という、ローマ時代の碑文の大文字をベースとした書体を、モノタイプ社で働いていたモリスンのためにデザインした。1927年から1930年にギル・サンという書体を続けて制作した。この書体はロンドン地下鉄の為にジョンストンがデザインした書体をベースに作られた。1930年から1931年の間に、ギルはジョアンナという書体をデザインし、自身の著書''An Essay on Typography''の文字組に使用した。 ギルは、''Capel-y-ffin''は場所の雰囲気が理想に合わず、多数の顧客を抱えるロンドンから遠すぎるという理由ですぐに飽きてしまった。1928年、バッキンガムシャーに程近い''Pigotts''に移住し、印刷所とレタリングのワークショップを設立した。後に有名な彫刻家となるデヴィッド・キンダスリー(''David Kindersley'')や、甥で彼も彫刻家・文字彫像家として名を残すジョン・スケルトン(''John Skelton'', 1923年 - 1999年)など、多くの徒弟を抱えた。他にも、ローリー・クリッブ(''Laurie Cribb'')、ドナルド・ポッター(''Donald Potter'')らが弟子入りしていた。〔See ''My time with Eric Gill: a memoir'', Gamecock Press, 1980, ISBN 0-9506205-1-3.〕また、ギルの娘ペトラと結婚したデニス・テゲットマイアー(''Denis Tegetmeier'')や、ジョアンナという別の娘と結婚したルネ・ヘイグ(Rene Hague)らが家族の一員となった。1932年、ギルはロンドンのBBC放送会館のために「''Prospero and Ariel''」という彫刻群を制作した。1937年には郵政省ために切手をデザインし、1938年にジュネーヴの国際連盟のために「''The Creation of Adam''」という3つの浅浮き彫り彫刻を手掛けた。この時期に王立芸術協会により''Royal Designer for Industry(通称RDI)''という栄誉ある賞が設立され、この賞のために新設された''Faculty of Royal Designers for Industry''の設立メンバーとなった。 エリック・ギルはとても信心深く、アートと宗教の関係に関するエッセイを多数出版した。その一方でエロティックな版画も数多く制作した。〔See catalogue: ''Eric Gill, the engravings'', Herbert Press, 1990, ISBN 1-871569-15-X.〕 ギルは1940年、ミドルセックス州のオックスブリッジにあるヘアフィールド病院で息を引き取った。''Pigotts''近郊にある彼の墓石には、彼について「彫刻師(''stone carver'')」とだけ説明されている。〔http://www.identifont.com/show?12W 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エリック・ギル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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