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エリック・ホッファー : ミニ英和和英辞書
エリック・ホッファー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エリック・ホッファー : ウィキペディア日本語版
エリック・ホッファー[ちょうおん]
エリック・ホッファー(Eric Hoffer, 1902年7月25日 - 1983年5月20日)は、アメリカの独学の社会哲学者。
==来歴==
ドイツ系移民の子としてニューヨークブロンクスに生まれる。7歳にして母親と死別し、同年視力を失う。その後、15歳で奇跡的に視力を回復する。以来、再びの失明の恐怖から、貪るように読書に励んだという。しかし正規の学校教育は一切受けていない。18歳の頃、唯一の肉親である父親が逝去し、天涯孤独の身となった。それを機にロサンゼルスの貧民窟でその日暮らしの生活を始める。
28歳の時、多量のシュウ酸を飲み自殺を試みるが未遂に終わる。それをきっかけにロサンゼルスを去り、カリフォルニアで季節労働者として農園を渡り歩いた。労働の合間に図書館へ通い、大学レベルの物理学数学をマスターする。農園の生活を通して興味は植物学へと向き、農園をやめてまで植物学の勉強に没頭し、またも独学でマスターすることになる。
ある日、勤務先のレストランカリフォルニア大学バークレー校の柑橘類研究所所長のスティルトン教授と出会い、給仕の合間に彼が頭を悩ませていたドイツ語で書かれた植物学の文献を翻訳した。彼はホッファーが植物学にもドイツ語にも精通していることを知り、研究員として勤務することを持ちかけた。しばらく研究員として働いたホッファーは、当時カリフォルニア州で流行っていたレモンの白化現象の原因を突き止めた功績が認められ、正式な研究員のポストが与えられるが、それを断り気ままな放浪生活へと舞い戻る。
哲学者、著述家としての転機は1936年、ホッファーが34歳の時であった。ヒトラーの台頭、そしてその冬、砂金掘りの仕事でひと冬を雪山で過ごすことになり、その暇つぶしとして道中の古本屋で購入したモンテーニュの『エセー』との出会いによって思索、とりわけ「書く」という行為を意識し始めたという。エセーはその冬で三度読み返し、最後には大部分を暗記してしまったという。
1941年より、サンフランシスコ沖仲仕として働いたことから、「沖仲仕の哲学者」とも呼ばれる。1964年より、カリフォルニア大学バークレー校の政治学研究教授になったが、65歳になるまで沖仲仕の仕事はやめなかった。ホッファーによると、沖仲仕ほど自由と運動と閑暇と収入が適度に調和した仕事はなかったという。また、沖仲仕を含む港湾労働者の労働組合幹部を長く続けていた。バークレーでは週に一度のオフィスアワーを持ち、1972年まで続けた。1967年にCBCで放送された対談番組は全米各地で大きな反響を呼んだ。再放送も人気だったことから、以来年に一度出演した。1970年代、ベトナム兵役拒否やヒッピーマリファナ学生運動の時代に、ある種の知的カリスマとして高い知名度をもっていたが、ホッファー自身は彼らを甘やかされた子供と捉えていた。ホッファーはベトナム戦争を肯定的に評価していた。
1983年2月、当時の大統領ロナルド・レーガン大統領自由勲章を送った。同年5月、老衰のため、80歳でその生涯を終えた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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