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エリナー・パウエル : ミニ英和和英辞書
エリナー・パウエル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エリナー・パウエル ( リダイレクト:エレノア・パウエル ) : ウィキペディア日本語版
エレノア・パウエル[ちょうおん]

エレノア・パウエル (Eleanor Torrey Powell、1912年11月21日1982年2月11日) はアメリカ合衆国の女優。舞台と映画で活躍、情熱的なソロのタップダンスで一世を風靡し、「タップの女王」と呼ばれた。
== 来歴・人物 ==
エレノア・パウエルは、1912年11月21日、マサチューセッツ州スプリングフィールドに生まれた。子供のときからダンスが得意だったパウエルは、11歳の時にヴォードヴィルの興行主に発見されたのがきっかけで演劇界に入る。17歳になる頃にはすでにブロードウェイで数々のレビューミュージカルに出演、長身を生かした、優雅で、しかも運動的なダンスのスタイルを完成していった。特にマシンガンのように繰り出すタップダンスのフットワークは一躍有名になり、「世界で最も偉大なタップダンサー」と呼ばれた。
1935年にハリウッドに活動の拠点を移したパウエルはメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約、『踊るブロードウェイ(Broadway Melody of 1936)』で初の主役を演じた。パウエルのどこまでもダイナミックなステップと、いつまでも涸れることのないスタミナに、大恐慌の余波が未だ収まらぬアメリカの庶民は勇気づけられ、この映画を見るために何度も映画館に足を運ぶ者も多かったという。映画は記録的な大ヒットとなり、これ一本で当時悪化していたMGMの経営が一挙に立ち直るまでに至った。
パウエルは一躍MGMの大スタアとなり、こののちの『踊る〜』シリーズ (“Broadway Melody” series) に次々に主演、自ら振付けも行った。なかでもフレッド・アステアと共演した『踊るニュウ・ヨーク (Broadway Melody of 1940)』は当代きってのダンサーの競演作となり、二人が見せる洗練されたダンスのスタイルは古き良きハリウッドを代表する「アート」として、アメリカでは今日でもカルチャーアイコン的存在の映画となっている。
しかしこの頃がパウエルの絶頂期だった。第二次世界大戦とともに時代は変化していた。目に鮮やかなレビュー形式のミュージカルだけでは価値観が多様化した観客を満足させるには不十分になっていたのである。『Ship Ahoy』(1942、日本劇場未公開) ではタップでモールス信号を打って秘密諜報員にメッセージを伝えるという時代を反映した役どころもこなしたが、1940年代に出演した映画はおおむね準主役か脇役で、主役の座は次第に唄えて演技ができる女優に代わられていった。
1943年に俳優のグレン・フォードと結婚、翌年には一人息子のピーター(ロックシンガーで俳優のピーター・フォード)が生まれる。『ニューヨークの饗宴 (Sensations of 1945)』(1944) が興行的な失敗に終わると、これを機にパウエルは映画界を事実上引退して育児に専念するようになる。MGMに乞われて1950年に『アイダホの公爵夫人』に本人役でカメオ出演、ほんの数分間の登場だったが、足にできた豆から血が出るほど入念にリハーサルを重ね、今や伝説的となったダンスを披露した。これがカラーで撮影されたパウエル初の作品であり、そしてパウエルの銀幕での見納めともなった。
その後パウエルはユニティ教会 (Unity Church) から宣教師に任命され、1953年から55年まで、日曜朝のキリスト教系番組『The Faith of Our Children』の司会者をつとめた。番組では息子ピーターがレギュラー出演、またパウエル自身はエミー賞を受賞、充実したものとなった。
1959年にグレン・フォードと離婚すると、息子の勧めもあって、パウエルはナイトクラブでのライブパフォーマンスという新しい領域での活動を始める。この頃『エド・サリヴァン・ショー』にも幾度か出演している。
1960年代後半にはライブパフォーマンスからも引退して公の場からは姿を消したが、『ザッツ・エンターテインメント』(1974) とその続編『ザッツ・エンターテインメント PART 2』(1976) でパウエルの華麗なダンスが重ねて取り上げられたことから、思わぬカムバックを果たす。その後も往年の大スタアとしての輝きは失せず、『ザッツ・エンターテインメント PART 3』(1994) でも取り上げられている。
1982年2月11日、のためハリウッドで死去。69歳だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エレノア・パウエル」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Eleanor Powell 」があります。




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