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エリュアール : ミニ英和和英辞書
エリュアール[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

アール : [あーる]
 【名詞】《単位》 an are
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エリュアール ( リダイレクト:ポール・エリュアール ) : ウィキペディア日本語版
ポール・エリュアール[ちょうおん]

ポール・エリュアール(Paul Éluard, 1895年12月14日 - 1952年11月18日)は、フランス詩人ダダイズム、ついでシュールレアリスムの運動を盛り上げた一人。反ファッショレジスタンスの闘士、そして『愛』を多くうたった。
==生涯==
本名はウジェーヌ=エミーユ=ポール・グランデル(Eugéne-Emille-Paul Grindel)。パリ北郊のサン=ドニで、クレマン=ウジェーヌ・グランデル(Clément-Eugéne Grindel)とジャンヌ=マリー(Jeanne Marie)の間に生まれた。彼が多く用いた筆名「ポール・エリュアール」の「エリュアール」は母方の祖母の姓である。父ウジェーヌは不動産業で成功し、1908年に一家はパリに出た。
1909年(14歳)、コルベール高等中学校(École Primaire Supérieure Colbert)の奨学生になったが、結核を病み、1912年暮、ダヴォスサナトリウムに入った。そこで年上のロシア人少女ヘレナ・ドミトロヴニェ・ディアコノヴァを知り、彼女をガラと呼んで愛した。ボードレールヴェルレーヌランボーアポリネールホイットマンなどを2人で読んだ。
1913年(18歳)、『最初の詩集』を自費出版し、雑誌への投稿も始めた。翌1914年春に退院し、その暮、第一次世界大戦に召集された。1917年、賜暇中にガラと結婚し、気管支炎のため入院し、予備役となった。
1919年(24歳)、ルイ・アラゴンアンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポー(Philippe Soupault)、トリスタン・ツァラらのダダイスムグループに加わった。1922年、友人マックス・エルンストを自宅に迎え、ガラとともに創作と恋愛の日々を送った。1923年にはサイゴンに旅行、失踪を試みるもエルンストに連れ戻された。
1924年(29歳)、ブルトンの『シュルレアリスム第一宣言』に賛同し、機関誌『シュルレアリスム革命』の編集に協力した。モロッコの対スペインフランス反抗を支持し、1926年、アラゴン、ブルトンらのシュルレアリストとともにフランス共産党へ入党した。1929年、ドイツの芸人、マリア・ベンツ(Maria Benz)を知った。ヌーシュ(Nusch)と呼んで愛した。
1930年(35歳)、サルバドール・ダリのもとへ走ったガラと離婚した。1931年、反植民地主義の綱領に署名した。1933年、共産党を除名された。1934年、反ファシズムの運動に加わった。ヌーシュと結婚した。その後、チェコスロバキアハンガリースペインイギリスで、シュルレアリスムを説いた。1937年、スペイン内戦中のゲルニカ爆撃に、エリュアールは『ゲルニカの勝利』を書き、友人パブロ・ピカソは『ゲルニカ』を描いた。1938年、ブルトンにシュルレアリスムよりの追放の呼びかけを発された。
1939年(44歳)、第二次世界大戦には、主計中尉として動員され、翌年の停戦でパリへ戻った。1942年、パリ南東ヨンヌ県ヴェズレー(Vézelay)に行き、フランス共産党に復し、潜伏し、レジスタンスの『全国作家委員会』(Comité national des écrivains)を組織した。反ナチの詩を匿名で書いた。イギリスの空軍機はそれを、フランスの空に撒いた。それに曲がついてベルギーで繰り返し歌われた。作曲はフランシス・プーランクと、のちに知れた。
1943年(48歳)、ゲシュタポの眼を、南仏ロゼール県サンタルバン=シュル=リマニョルの精神病院に避けた。1944年2月、パリに潜入し、同8月の解放を迎えた。1945年、スイス、イギリスへ旅した。1946年、講演などに、チェコスロヴァキア、イタリアユーゴスラヴィアギリシャを回った。スイスで休養中、ヌーシュの脳卒中による急死を知った。愛惜の詩を書いた。
1948年(53歳)、ポーランドヴロツワフの平和会議に、ピカソと出席した。1949年、4月にパリ世界平和会議に出席し、5月 - 6月にマケドニアを回り、さらに、ギリシャ北部の山中で、折から内戦中のゲリラ兵らと数日を過ごし、9月にメキシコ平和会議に出席し、翌月ドミニク・ルモールを帯同してパリに帰った。
1950年(55歳)、4月にドミニクを連れてプラハソフィアへ行き、5月モスクワのメーデーに参加し、さらにレニングラードを訪ねた。1951年、ドミニクと結婚し、詩集『不死鳥』を彼女に捧げた。
1952年(57歳)、2月にジュネーヴで講演し、翌月にかけてモスクワの二つの記念行事に参加して演説した。9月に狭心症の発作を起こした。11月18日、再度の発作により没した。ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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