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エリー砦包囲戦(エリーとりでほういせん、)は、米英戦争終盤のナイアガラ方面作戦では最後かつ最も長引いた戦闘になった。アメリカ軍はイギリス陸軍の攻撃からエリー砦を守ったが、その後物資が不足したために砦を放棄することになった。 == 背景 == ジェイコブ・ブラウン少将が指揮したアメリカ軍は、1814年7月3日にナイアガラ川を渡って、エリー砦を占領した。チッパワの戦いでイギリス軍を破った後、北に進軍したが、イギリス軍はナイアガラ半島の部隊を補強した。7月25日、激戦となったランディーズ・レーンの戦いが起こり、決着は付かなかった。このときブラウンが重傷を負った。この戦闘後、数で劣るアメリカ軍はエリエザー・ウィーロック・リプリー准将の指揮でエリー砦まで後退した。リプリーはエリー砦も放棄してナイアガラ川を渡っての撤退を主張したが、ブラウンがその発言を封じ、サケッツ港からエドモンド・P・ゲインズを召んで指揮を執らせた〔Hitsman, J. Mackay & Graves, Donald E. p.230〕。 アッパー・カナダ副総督のゴードン・ドラモンド中将が指揮したイギリス軍は、ランディーズ・レーンの戦いで大きな損失を出していた。それでもドラモンドは、アメリカ軍は算を乱して撤退を強いられたと主張し、ナイアガラ川のカナダ領からアメリカ軍を追い出すつもりだと言い張った。その部隊は緩りアメリカ軍の後を追い、8月4日にエリー砦前に到着した。ドラモンド隊の勢力は3,000名だったが、兵士の質についておよび部隊が分遣隊や中隊の混成であるその程度についてドラモンド自身が不満に思っていた〔。イギリス軍が緩り進軍したことで、アメリカ軍が部隊を再編成し、その防御を強化するだけの時間が与えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エリー砦包囲戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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