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サッカー戦争(サッカーせんそう、)は、1969年7月14日から7月19日にかけてエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。同年6月に行われた1970 FIFAワールドカップ・予選において両国が対戦した際の国民感情のもつれから国交断絶に至った経緯から「サッカー戦争」の名称で知られているが、その背景には両国間の国境線問題、ホンジュラス領内に在住するエルサルバドル移民問題、貿易摩擦などといった問題が存在する。100時間戦争〔〔大貫 1999、186頁〕やエルサルバドル・ホンジュラス戦争とも呼ばれる。 == 背景 == === 移民問題 === エルサルバドルは中米で最も国土面積が小さく、人口密度が最も高い国である〔大貫 1999、86頁〕。人口の約9割は、メスティーソと呼ばれるスペイン系などの白人とインディオの混血であり〔、残りは純粋な白人とインディオで構成されていた〔。山岳地帯が連なる狭い国土に居住しており、中米地域の中で特に工業が発展していること、また勤勉な国民性を持つ点などから「中米の日本」とも評された。 その一方で19世紀後半頃から国内経済をコーヒーの生産と輸出に依存していたが〔後藤 1993、319頁〕、これは政府が自給自足農業を行う先住民の土地所有を法律により禁止し〔、コーヒー生産者には税制上の優遇措置を付与するなどして、国を挙げてコーヒー生産を奨励したことの影響によるものだった〔。国土の多くは「14家族」(カトルセファミリア)と呼ばれる一部の白人富裕層の所有する農場で占められ、土地や財産を独占していたのに対し〔〔、多くの国民は低所得に抑えられ生活に困窮していた〔〔。 土地を所有していないエルサルバドルの一部の国民は、約6倍の国土を持ち人口比もエルサルバドルの2分の1(250万人)に満たない隣国のホンジュラスへと移住し生活基盤を置いたが、こうした移民は1960年代当時、合法による者と非合法による者を含めて30万人から50万人に上った〔田中 2004、133頁〕。 ホンジュラスでは古くからエルサルバドルからの移民を受け入れ、1900年代には政府が辺境地を開拓する意思を持つ移民に対し無償で土地を提供し〔アームストロング、シェンク 1984、116頁〕、1932年にエルサルバドルで恐慌が発生した際には、数千人がホンジュラスへと移民し、農園や鉱山で働いた〔。一方、ホンジュラスの国内情勢の変化や、地元民と移民との間での土地と仕事を巡る争いごとが表面化すると〔、ホンジュラス政府も次第に態度を硬化させるようになった〔。 移民問題に対処するべく、両国政府は1962年と1965年に条約を締結し調整を図ってきたが〔、ホンジュラス国内の人口増加、バナナ農園の近代化に伴う労働需要の激減、牧畜や綿花農園の拡大による農地不足が問題となり、野党や富裕層から農地改革への圧力が高まっていた〔〔アームストロング、シェンク 1984、117頁〕。ホンジュラス政府は1969年1月〔 〕に条約の更新を拒否し〔、大統領は、1962年に制定された農地改革法の実施に踏み切ることになった〔アームストロング、シェンク 1984、118頁〕。この改革法は土地の所有者をホンジュラス国内で出生した者に限定したもので〔、それに該当しないエルサルバドル移民に対し30日以内の国外退去を求める内容となった〔。ホンジュラス政府による発表は1969年4月に行われ〔、同年5月下旬までにエルサルバドル移民の帰還が始まった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サッカー戦争」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Football War 」があります。 スポンサード リンク
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