|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 橋 : [はし, きょう] 【名詞】 1. bridge
エルジェーベト橋 (エルジェーベトばし、) は、ハンガリーの首都ブダペストのドナウ川沿岸で、ブダ地区とペシュト地区(ペスト地区)を結ぶ3番目に新しい橋である。再建された現在のエルジェーベト橋は白いシンプルなケーブル吊橋だが、かつて同じ場所にあった旧エルジェーベト橋は、チェーン吊橋として特筆すべき長さと美しさを備えていた。 エルジェーベト橋はブダペストのドナウ河岸の中で川幅が最も狭い場所に架けられており、その距離はわずか290 m である。橋は、ペシュト側の旧市街教区聖堂(13世紀に建造されたペシュト地区最古の教会)や3月15日広場がある地区と、橋の名前の由来になったオーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの銅像があるドブレンテイ広場やゲッレールトの丘に繋がるブダ側の地区を結んでいる。ブダ側には、近くにはやもある。 ==歴史== === 計画 === ブダペシュト市内を流れるドナウ川に架かった最初の恒常的な橋は、ウィリアム・ティアニー・クラークが設計したセーチェーニ鎖橋(1849年)であった。クラークは、このあと、市内で川幅が最も狭くなる地区にも橋を架けることを計画していた〔南塚 (2007) pp.229-232〕。この計画が実現に向けて動き出したのは、1885年のことだった。市議会がセーチェーニ鎖橋の通行税をもとに、マルギット橋(1876年)に続く新しい橋を2本作ることを決議したのである〔南塚 (2007) pp.225-226〕。しかし、この計画では橋の両端に当たる土地の確保で問題が起こった。 まずペシュト側はエシュキュ広場(現・3月15日広場)に繋がる橋が想定されていたが、当時のペシュト地区中心部にあたることから、教区聖堂(現・旧市街教区聖堂)や市庁舎などの存在が建設の妨げになると判断されたのである。この結果、当時の市庁舎は取り壊されることが決まった〔。 他方、ブダ側では、ルダシュ温泉などに近い位置のため、温泉の湧出に対応する必要があった〔。実際、橋の建設中に地下の温泉によって温められたアスファルトの粘着性が低下し、わずかずつだが橋台が川に滑りつつあることが確認され、改めて対策することを余儀なくされたこともあった〔メドベド (1999) p.151〕。それに加え、土地の売却をめぐる汚職事件が起こったのである。エルジェーベト橋のブダ側の端はゲッレールトの丘のふもとに直接伸びており、橋に繋がる道は入り組んだものにならざるをえなかった。そのような形で橋が設計された原因は、ある裕福な貴族にあった。彼は河岸の特定の地域を所有していた市会議員で、同僚議員や技師たちを買収して、橋の建設用地として所有地の一部を売却し、ひと儲けしようと目論んだのである。彼はかなり吊り上げた価格でまんまと売却してしまった。馬車の時代には橋と道路をどう繋ぐかは重視されておらず、結果として生じたコストの超過分も覆い隠されてしまったので、訴追が行われることもなかった。しかし、その結果できた橋から直結する急カーブでは、多くの自動車ドライバーたちの死傷する事故が20世紀から21世紀初頭にかけての数十年間あとを絶たず、2004年のある家族の死亡事故の後、西行きの車線では40 km/hの速度制限が設けられることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エルジェーベト橋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|