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エルネスト・ラファエル・ゲバラ : ミニ英和和英辞書
エルネスト・ラファエル・ゲバラ[らふ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough

エルネスト・ラファエル・ゲバラ ( リダイレクト:チェ・ゲバラ ) : ウィキペディア日本語版
チェ・ゲバラ[らふ]

エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(、1928年6月14日 - 1967年10月9日)は、アルゼンチン生まれの政治家革命家で、キューバゲリラ指導者。
チェ・ゲバラ」の呼び名で知られるが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語リオプラテンセ・スペイン語をはじめとする諸方言)で「やぁ」、「おい」、「お前(親しみを込めた)」、「ダチ」といった砕けた呼び掛けである。ゲバラが初対面の相手にしばしば「チェ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していた事から、キューバ人達が「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名である。ラテンアメリカではキューバ革命以降「チェ」もしくは「エル・チェ ()」(「el」男性定冠詞単数形)といえば彼の事を指す。
== 年譜 ==

* 1928年6月14日、アルゼンチン第二の都市ロサリオで裕福な家庭に生まれる。
* 1930年 ブエノスアイレスに住んでいたとき、最初の喘息発作を起こす(2歳)。
* 1932年 重い喘息のため、一家はコルドバ避暑地アルタ・グラシアに転居する。
* 1941年 コルドバの高等学校に入学。喘息にもかかわらず、ラグビーサッカーなどの激しいスポーツを愛好した。
* 1948年 ブエノスアイレス大学医学部に入学、アレルギーの研究を志す。
* 1950年 北部アルゼンチンをモペッドで単独走破。
* 1951年 アルベルト・グラナードとともに、オートバイで南アメリカをまわる旅に出てラテンアメリカをつぶさに見聞。(第一のラテンアメリカ放浪)
* 1952年 南米旅行の最終地点ベネズエラカラカスで、アルベルトと別れ帰国して医学部を卒業することを決意。
* 1953年 通常6年の課程を3年で終え、医師免許を取得。フアン・ペロン政権下で軍医になることを避け、カリーカことカルロス・フェレールとともにアルゼンチンを起つ(第二のラテンアメリカ放浪)。ボリビアで農地改革の現実を目撃。アルベンス社会主義政権下のグアテマラで出会ったペルー人社会主義者イルダ・ガデアの紹介で亡命キューバ人と知り合う。
* 1954年 グアテマラのハコボ・アルベンス・グスマンによる政権がカスティージョ・アルマス大佐率いる軍部(アルマスはこの功績でグアテマラ大統領に祭り上げられる)にクーデターで倒され、怒りとともにメキシコに亡命。
* 1955年 イルダ・ガデアと結婚
* 1956年 長女イルディタ誕生。メキシコ亡命中のフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロと出会い意気投合、従軍医として反独裁闘争に参加することを承諾。グランマ号(10人乗りのヨットに82人)でキューバに上陸(12月2日)、以後25ヶ月間におよぶゲリラ戦に従軍。
* 1957年 反乱軍第2軍(75名)の指揮官少佐)、少佐の階級章(一つ星)をつけた黒のベレー帽は後年チェのシンボルマークとなる。ベレーには上下を逆にした騎兵章(交差したサーベル)を付ける事もあった。
* 1959年 バティスタが国外逃亡しキューバ革命成立。キューバの国立銀行総裁に就任。イルダ・ガデアと正式に離婚し、志願して来たのを迎え入れて以来副官同然だった同志、アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレと結婚し4児をもうける。アジアアフリカの親善大使として来日、12日間滞在した。このとき、広島市原爆資料館を訪問し、「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と案内人に語った。
* 1960年 著書『ゲリラ戦争』出版。ソ連を初訪問。
* 1961年 工業大臣に就任。故郷アルゼンチンへ8年ぶり(最後)の帰国をするが、滞在時間はわずか4時間だった。
* 1963年 アルジェリア独立一周年記念式典に出席。
* 1964年 ベン・ベラ大統領の招きでアルジェリア訪問。12月11日国際連合総会でキューバ主席として演説〔Che Guevara at United Nations 〕、7月26日運動の合言葉『祖国か、死か!』を紹介する。
* 1965年 国際的な革命闘争に参加するためキューバを離れる。アフリカ各地を歴訪し、コンゴでは一時的に闘争(コンゴ動乱)に参加。キューバ共産党中央委員会でカストロはゲバラから自分宛に遺された「別れの手紙」を発表。
* 1966年 コンゴ動乱から引き揚げ、チェコスロバキアのラードビー(プラハの南東25キロにある町)に3月から7月まで、チェコ情報機関に匿われ滞在。「一つ、二つ……数多くのベトナムをつくるために」(1967年に公表されたメッセージの言葉)ラテンアメリカに戻り、変装してボリビアへ。ボリビアでの様子を記した日記は『ゲバラ日記』として死後刊行。
* 1967年10月8日 ボリビアのバジェグランデ近郊のイゲラ村の近くで捕えられ、大統領レネ・バリエントス・オルトゥーニョの命令で10月9日に処刑(銃殺刑)された。39歳没。
* 1997年 死後30年目、ボリビアで遺骨が発掘され、ハバナに移送された。
* 2004年1月25日 米国俳優ロバート・レッドフォードが、ゲバラの著作『モーターサイクル南米旅行日記』(邦訳・現代企画室)と、ゲバラの友人アルベルト・グラナードの著作『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』(邦訳・Gakken)を下敷きにプロデュースした新作映画モーターサイクル・ダイアリーズ』を携え、ハバナを訪問。遺族やハバナ市民が映画を鑑賞した。
* 2007年10月8日 没後40周年式典や追悼式典がキューバのサンタクララなどで行われる。
* 2008年2009年 死の二日前まで記された日記『Reminiscences of the Cuban Revolutionary(革命戦争の経過)』(邦題:『革命戦争回顧録』)を基にした映画『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳 別れの手紙』が世界中で公開される。
* 2010年5月22日、ゲバラを逮捕したボリビア陸軍のガリー・プラド (Gary Prado) 元将軍が、ボリビア東部の分離独立を画策するために右派の民兵組織を結成した容疑で、自宅軟禁措置を受けた。プラドは容疑を否認している。
* 2011年6月14日、生誕83年にあたるこの日、永らく発表されていなかったキューバの革命戦争の時の日記がオーストラリアのオーシャン・プレス社から出版された〔チェ・ゲバラ未公開日記 ハバナで出版 〕〔チェ・ゲバラの未公開日記、50年を経て出版 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チェ・ゲバラ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Che Guevara 」があります。




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