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エルンスト・カルテンブルナー : ミニ英和和英辞書
エルンスト・カルテンブルナー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

テン : [てん]
 【名詞】 1. 10 2. ten 3. (P), (n) 10/ten
ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エルンスト・カルテンブルナー ( リダイレクト:エルンスト・カルテンブルンナー ) : ウィキペディア日本語版
エルンスト・カルテンブルンナー[ちょうおん]

エルンスト・カルテンブルンナー(Ernst Kaltenbrunner, 1903年10月4日 - 1946年10月16日)は、オーストリア及びドイツの法律家、政治家。
ナチス親衛隊(SS)の幹部の一人でオーストリアの親衛隊及び警察高級指導者(HSSPF)を経て、ラインハルト・ハイドリヒの死後の1943年にRSHA長官となり、ヨーロッパにおいてユダヤ人の絶滅政策の執行にあたった。ドイツ敗戦後にニュルンベルク国際軍事裁判において戦争犯罪人として起訴され、死刑宣告を受けて絞首刑に処せられた。最終階級は親衛隊大将武装親衛隊大将及び警察大将。
== 生涯 ==

=== 前半生 ===
1903年、オーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州の工業都市リート・イム・インクライス(:de:Ried im Innkreis)に生まれる。父は弁護士のフーゴ・カルテンブルンナー(Hugo Kaltenbrunner)。母はその妻テレーゼ(Therese)。カルテンブルンナー家はカトリック家庭で祖父の代から弁護士だった〔大野(2001)、p.232〕〔パーシコ(1996)、上巻p.216〕。
7歳までラープで育ち、1913年にリンツの実科ギムナジウムに入学。ギムナジウム在学中に汎ゲルマン主義的で反教権主義的なブルシェンシャフト「ホーエンスタウフェン」に加入している〔。またこのギムナジウムにはアドルフ・アイヒマンも通っており、二人は友人だった〔LeMO 〕。
1921年秋にグラーツグラーツ工科大学に入学した。はじめ化学を専攻したが、1923年に法学に転じた〔〔Yerger(2002)、p.135〕〔。1926年夏に法学博士の学位を取得している〔〔。カルテンブルンナー本人によれば彼の大学生活は、炭鉱で夜勤をしながらの苦学だったといい、しばしば自分が労働者の友である事を強調していた〔。大学在学中にブルシェンシャフト「アルミニア」に加わっている〔〔大野(2001)、p.233〕。カルテンブルンナーは熱心な活動家であり、団体の中心的役割を占めた。汎ゲルマン主義、反教権主義、反ユダヤ主義、反自由主義思想などに影響され、ドイツ人によるドイツ・オーストリア統一を目指した〔。
1926年にグラーツからリンツへ移り、リンツ地方裁判所において司法官試補の研修を受けた。1928年には弁護士の事務所に就職した〔大野(2001)、p.234〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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