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エルヴィン・ジータス : ミニ英和和英辞書
エルヴィン・ジータス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エルヴィン・ジータス : ウィキペディア日本語版
エルヴィン・ジータス[ちょうおん]

エルヴィン・ジータスErwin Sietas1910年7月24日 - 1989年7月19日)は、ドイツの元競泳選手である。彼は、1936年に開催されたベルリンオリンピックの男子200メートル平泳ぎで銀メダルを獲得した他、ヨーロッパ水泳選手権で3個のメダルを獲得している。
== 経歴 ==
ジータスは1920年代から1930年代にかけて活躍した平泳ぎ選手エーリッヒ・ラーデマッハー(1928年アムステルダムオリンピック男子200メートル平泳ぎ銀メダリスト)の後継者と目され、1928年から1936年までドイツ国内の平泳ぎ選手権で連続優勝していた〔ERWIN SIETAS (GER) 1992 Honor Pioneer Swimmer 国際水泳殿堂ウェブサイト、2012年5月6日閲覧。〕。長身で筋肉質のジータスは、当時の平泳ぎ選手に多かった小柄でずんぐりした体形の選手たちとは一線を画していた〔。彼は200メートル平泳ぎを得意種目としていて、1928年に開催されたアムステルダムオリンピックから1936年のベルリンオリンピックまで、3回連続でこの種目にドイツ代表として出場している〔Germany Swimming at the 1928 Amsterdam Summer Games 2012年5月7日閲覧。〕〔Germany Swimming at the 1932 Los Angeles Summer Games 2012年5月7日閲覧。〕〔Germany Swimming at the 1936 Berlin Summer Games 2012年5月7日閲覧。〕。1935年3月16日には、当時の世界記録2分42秒4を記録していた〔。
17歳で初出場したアムステルダムオリンピックの200メートル平泳ぎには、13の国から21人の選手が出場して、1928年8月6日(予選)、8月7日(準決勝)、8月8日(決勝)の日程で実施された。選手たちは4つの組に分けられて、まず予選に挑んだ。予選各組上位2名と、記録最上位の1名の計9選手が準決勝に進むことになっており、ジータスは2分57秒4の記録で1組の2位につけて勝ち残った〔Swimming at the 1928 Amsterdam Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke Round One 2012年5月7日閲覧。〕。翌日の準決勝では、2分57秒8の記録で2組の3位となって決勝に進んだ〔Swimming at the 1928 Amsterdam Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke Semi-Finals 2012年5月7日閲覧。〕。決勝では予選や準決勝よりもタイムを縮めて2分56秒6の記録を出したが、3位に入ったフィリピン代表テオフィロ・イルデフォンソに0秒2及ばず、メダルを逃した〔Swimming at the 1928 Amsterdam Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke Final 2012年5月7日閲覧。〕〔Swimming at the 1928 Amsterdam Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke 2012年5月7日閲覧。〕。
次のロサンゼルスオリンピックの200メートル平泳ぎには、11の国から18人の選手が出場して8月11日(予選)、8月12日(準決勝)、8月13日(決勝)の日程で実施された。今回も選手たちは4つの組に分けられて、予選に挑んだ〔ただし、予選での組の人数は、2人(4組)、5人(2組と3組)6人(1組)とまちまちに分けられていた。〕。2組で泳いだジータスは、日本代表小池禮三についで2分51秒0で2位につけて勝ち残った〔Swimming at the 1932 Los Angeles Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke Round One 2012年5月7日閲覧。〕。翌日の準決勝では、2分47秒6の記録で2組の1位となって決勝に進んだ〔Swimming at the 1932 Los Angeles Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke Semi-Finals 2012年5月7日閲覧。〕。決勝では2分48秒0の記録だったが、今回も3位となったイルデフォンソに0秒9の差で及ばず、メダルを逃した〔Swimming at the 1932 Los Angeles Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke Final 2012年5月7日閲覧。〕〔Swimming at the 1932 Los Angeles Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke 2012年5月7日閲覧。〕。
ジータスにとっての最後のオリンピックとなった1936年のベルリンオリンピックの200メートル平泳ぎには、11の国から25人の選手が出場して8月13日(予選)、8月14日(準決勝)、8月15日(決勝)の日程で実施された。選手たちは5つの組に分けられて、予選に挑んだ〔この回でも予選の組み分け人数はまちまちで、1組は5人、2組と3組は6人、4組と5組は4人だった。〕予選各組上位3名と、記録最上位の1名の計16選手が準決勝に進むことになっており、ジータスは、1組で日本代表葉室鐡夫についで2分44秒6の記録で2位となり、準決勝に進んだ〔Swimming at the 1936 Berlin Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke Round One 2012年5月7日閲覧。〕。翌日の準決勝では、2分44秒8の記録で葉室、アメリカ代表のハーバート・ヒギンスについで3位に入って決勝に勝ち残った〔Swimming at the 1936 Berlin Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke Semi-Finals 2012年5月7日閲覧。〕。決勝にはジータスの他、同じくドイツ代表のヨッヘン・バルケ、日本代表の葉室、小池、伊藤三郎、アメリカ代表のヒギンス、そしてフィリピン代表のイルデフォンソが出場した。レースではヒギンスがバタフライ泳法〔ベルリンオリンピックの時点では、バタフライは平泳ぎから発展した泳法の一つとして、平泳ぎと同様に扱われていた。バタフライが夏季オリンピックの独立種目となったのは、1956年のメルボルンオリンピックからである。〕で飛ばし、バルケが追いついた。45メートル付近で葉室と小池が追いつき、50メートルのターンは葉室、小池、ヒギンス、バルケの順だった。60メートル付近でジータスはヒギンスを抜き去り、葉室に追いすがった。100メートルターンでは葉室、ジータス、イルデフォンソ、小池の順だった。ジータスは小池、イルデフォンソ、ヒギンスと抜きつ抜かれつの状態で葉室を僅差で追い、150メートルターンに差し掛かった。ここでは葉室、ヒギンス、小池、ジータス、イルデフォンソの順だった。残り30メートルというところでジータスは葉室との差を詰めて逆転する寸前まで追いすがったが、結局葉室は2分41秒5で逃げ切り、ジータスは2分42秒9で2位となって銀メダルを獲得した〔沢木、269-278頁。〕。なお、3位には小池が入り、4位以下はヒギンス、伊藤、バルケ、イルデフォンソの順であった〔〔Swimming at the 1936 Berlin Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke Final 2012年5月7日閲覧。〕〔Swimming at the 1936 Berlin Summer Games:Men's 200 metres Breaststroke 2012年5月7日閲覧。〕。
ベルリンオリンピックから36年後の1972年、ドイツで2度目の開催となるミュンヘンオリンピックの年にジータスと葉室に「再戦」の機会が訪れた。そのきっかけとなったのは、1970年に大阪で開催された万国博覧会だった。万国博覧会のドイツ館とドイツ国内とを結ぶラジオ放送に葉室がゲスト出演した際、海の向こうのドイツ国内では、ジータスが同じくゲストとしてラジオマイクの前にいた。葉室が「君はまだ水泳を続けているか」と問いかけると、ジータスは「まだ続けている」と答えた。次にジータスが葉室に「2年後にはミュンヘンに来るか」と尋ねると葉室は「必ず行く」と答えた。そして「もしよければ、あのオリンピックプールでもう1度レースをしないか」と提案し、ジータスもその提案に賛同した〔沢木、340-342頁。〕。
2年後の1972年、葉室はジータスとの約束を果たすためにドイツを訪れた。既に一般公開されていたオリンピアパルク・スイムシュタディオンは、2人のために特別に2つのコースを設定した。当時62歳のジータスと58歳の葉室は、プールに通う子供たちが見守る中で同時にスタートを切った。今回はジータスが先行し葉室が追いかける展開となって、ジータスがタッチの差で逃げ切った。2人の競った距離は、200メートルから50メートルへと短くなっていた。ドイツの新聞は翌日、「金メダルに36年遅かった」という見出しでジータスの勝利を伝えた。しかし、ジータスも葉室も友情を確認するだけで十分で、もはや勝ち負けなどは関係ないことだった〔〔島村俊治の「アスリートのいる風景」(1月号)◎ 第6回「語り継ぎたい名スイマー」 ニューヴォイス嶋村プロウェブサイト、2012年5月6日閲覧。〕。その後も2人の友情は続き、1978年に当時の西ベルリンで開催された第3回世界水泳選手権でも、一緒にオリンピアパルク・スイムシュタディオンのスタンドで平泳ぎのレースを観戦している〔。
オリンピック以外の主要な競技会では、ヨーロッパ水泳選手権で1931年に200メートル平泳ぎで銅メダル、1934年に金メダル、1938年に銀メダルを獲得した実績を持っている〔〔EUROPEAN SWIMMING CHAMPIONSHIPS (MEN) 2012年5
月9日閲覧。〕。ジータスは1989年にハンブルクで死去した。死後の1992年には、国際水泳殿堂(:en:International Swimming Hall of Fame)入りしている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エルヴィン・ジータス」の詳細全文を読む




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