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カネック(Canek、本名:Felipe Estrada、1952年6月19日 - )は、メキシコ の覆面レスラー。タバスコ州フロンテーラ出身。日本では「仮面の魔豹」「盗賊仮面」などの異名で呼ばれた。 リングネームの「カネック」は、スペインによる支配に反乱を起こしたマヤ系インディオの指導者ハシント・カネック(Jacinto Canek)にあやかったものである〔『Gスピリッツ Vol.25』、P105。〕。日本では「エル・カネック(El Canek)」と表記・呼称される場合があるが、"Canek" は固有名詞であるため、スペイン語圏のメキシコでのリングネーム表記では定冠詞の "El" は付かない。 1970年代後半から1980年代にかけてを全盛期にメキシコマット界の第一人者として活躍し、ミル・マスカラスの最大のライバルと謳われた。弟はプリンシペ・マヤ、実子がカネック・ジュニア。 == 来歴 == ボディビルで体を鍛えた後、1971年に「青い王子」を意味するプリンシペ・アスール(''Príncipe Azul'')の名義でデビュー〔。その後、1973年3月24日にカネックのリングネームで再デビューするが、試合にはほとんど出場せず、中国系メキシコ人レスラーのハム・リーのジムでトレーニングを積んだ〔『Gスピリッツ Vol.25』、P106。〕。 1975年1月29日、LLI / UWAの旗揚げ興行に出場、セミファイナルの6人タッグマッチでドリー・ディクソン&スニー・ワー・クラウドと組み、ミル・マスカラス、エル・ソリタリオ、レイ・メンドーサ組と対戦〔『Gスピリッツ Vol.25』、P107。〕。以降UWAを主戦場に、1976年12月17日にホセ・トーレス(後のスペル・マキナ)から北部ヘビー級王座を奪取、初戴冠を果たす〔『Gスピリッツ Vol.25』、P108。〕。 1978年3月、新日本プロレスに初来日。その後カール・ゴッチの指導を受け〔『Gスピリッツ Vol.19』、P42-43。〕、同年8月27日、バラシオ・デ・ロス・デポルテスにてルー・テーズを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得。メキシコの団体において初の自国人ヘビー級王者となる〔『Gスピリッツ Vol.25』、P110。〕。以降、テムヒン・エル・モンゴル、ストロング小林、ブファロ・アレン(バッファロー・アレン)、ビル・ロビンソン、タイガー・ジェット・シン、パット・パターソン、藤波辰巳、長州力、スタン・ハンセンなどの強豪を相手に防衛戦を展開。「UWAの帝王」として活躍した。 デビュー以来、主にルードのポジションで活動し、ミル・マスカラス、ドス・カラス、エンリケ・ベラ、ティニエブラスなどのテクニコと抗争を展開していたが、上記の挑戦者群など、アメリカやカナダ、日本などから参戦してくる外敵を迎撃する役割も担った〔『Gスピリッツ Vol.24』、P92。〕。1979年4月22日にはUWAの総本山エル・トレオにてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。1981年にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとも対戦した〔。同年は新日本プロレスのブッキングでアメリカのWWFにも出場し、8月24日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダから勝利を収めた。 1984年はアンドレ・エル・ヒガンテことアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦、1月15日のタッグマッチと2月12日のシングルマッチの2試合において、アンドレをボディスラムで投げることに成功している〔。同年9月2日にはエル・トレオにてハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦、UWAとWWFの両世界王者対決が行われた(結果はドロー)〔『Gスピリッツ Vol.24』、P93。〕。 1988年からはビッグバン・ベイダーとの抗争を開始。1989年11月22日にベイダーに敗れUWA世界王座から陥落するが、翌1990年12月9日に奪回〔。以後、1990年代はグレート・コキーナ、ブルー・ブレイザー、バンピーロ・カサノバ、ヤマト、ブラック・マジック、ミゲル・ペレス・ジュニアなどの外敵を迎え撃った。1996年のUWA崩壊後はAAAに主戦場を移したが、以降もUWA世界王座を自身の象徴として保持、2004年6月18日にドクトル・ワグナー・ジュニアに敗れるまで戴冠を続けた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カネック」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Canek (wrestler) 」があります。 スポンサード リンク
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