|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラグーザ・玉(-たま、1861年7月17日(文久元年6月10日) - 1939年(昭和14年)4月6日)は、日本の女性画家。旧姓清原〔『日本の美術 女性画家の全貌。――疾走する美のアスリートたち』(2003年、美術年鑑社) p.121 ISBN 4-89210-156-7〕、幼名多代〔『日本美術年鑑』1939年版〕。ラグーザお玉とも表記される。また西洋名はエレオノーラ・ラグーザ(Eleonora Ragusa)〔木村毅(編)『ラグーザお玉自叙伝』(恒文社、1983年) p.112〕。夫は彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザ〔。 == 略歴 == 1861年7月17日(文久元年6月10日)、江戸に生まれた〔。 幼名を多世(たよ)といい、自ら多代とも記した。若い頃から「エイシュウ」という人に師事したといわれ日本画、西洋画を学んだ。永寿と号す。1877年、工部美術学校で教鞭をとっていた彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザと出会い、西洋画の指導を受けた〔。また玉はヴィンチェンツォの作品のモデルも務めた〔。 1880年にヴィンチェンツォと結婚。2年後の1882年に、夫婦でイタリアのパレルモに渡行し、パレルモ大学美術専攻科に入学〔、サルバトーレ・ロ・フォルテに師事した〔。1884年には、ヴィンチェンツォがパレルモに工芸学校を開設し、玉は絵画科の教師を務めた〔。 また画家としても、パレルモやモンレアーレ、シカゴなど各地の美術展や博覧会で受賞するなど、高い評価を得ていた〔。 1927年に、夫のヴィンチェンツォと死別〔。東京美術学校にヴィンチェンツォの遺作を多数寄贈し、1933年、51年ぶりに日本に帰国した〔。帰国後は画業に集中した。 1939年4月5日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)の実家で脳溢血を起こし、翌6日に急逝、享年79〔。 1986年に、初の回顧展となる「ラグーザ玉展」が、新宿小田急グランドギャラリーなどで開催された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラグーザ玉」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kiyohara Tama 」があります。 スポンサード リンク
|