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エレオノーレ・フォン・エッティンゲン=シュピールベルク : ミニ英和和英辞書
エレオノーレ・フォン・エッティンゲン=シュピールベルク[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エレオノーレ・フォン・エッティンゲン=シュピールベルク : ウィキペディア日本語版
エレオノーレ・フォン・エッティンゲン=シュピールベルク[ちょうおん]
エレオノーレ・フォン・エッティンゲン=シュピールベルクPrinzessin Eleonore von Oettingen-Spielberg, 1745年7月7日 エッティンゲン - 1812年11月26日 ウィーン)は、オーストリアハプスブルク君主国)の貴族女性で、18世紀後半のウィーン貴族社交界の中心人物。結婚後のエレオノーレ・フォン・リヒテンシュタインFürstin Eleonore von Liechtenstein)の姓名で知られる。神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の親友かつ想い人であり、青年期のクレメンス・フォン・メッテルニヒ侯爵の庇護者だった。
== 生涯 ==
エッティンゲン=シュピールベルク侯ヨハン・アロイス1世(1707年 - 1780年)とその妻のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ヴィーゼンブルク公女テレーゼ(1713年 - 1745年)の間の三女として生まれた。洗礼名はマリー・エレオノーレ・ガブリエーレ・ヴァルブルガ・オイフェーミア(''Marie Eleonore Gabrielle Walburga Euphemia'')であった。母を誕生の1週間後に亡くしていたこともあり、1749年に4歳でストラスブールの女子修道院に預けられて教育を受けた。
1760年に母方の叔母エレオノーレ(グアスタッラ公ジュゼッペの寡婦)が亡くなると、姉レオポルディーネと共に叔母の遺産相続人となり、エレオノーレはモラヴィアの領地を相続した。姉妹は裕福な女子相続人として有名になり、姉妹揃って皇后マリア・テレジアの女官に任命され、皇后の娘たちとも親しくなった。姉は皇帝家の宰相ヴェンツェル・アントン・フォン・カウニッツ侯爵の嫡男と結婚した。自身も1763年5月30日にホーフブルク宮殿において、カール・フォン・リヒテンシュタイン侯爵と結婚した。夫妻は間に7人の子供をもうけるが、エレオノーレは結婚後数年経つと騎兵総監伯爵と浮名を流すなど、必ずしも夫に従順な妻とは言えなかった〔A・T・ライティヒ『女帝マリア・テレジア(下)』谷沢書房、1984年、P228〕。
エレオノーレは皇帝ヨーゼフ2世のお気に入りの女友達となり、姉や従姉妹たちとともにウィーンの貴族社交界で重要な地位を占めるようになった。エレオノーレを中心とするサークルは「5人の貴婦人(''Die fünf Damen'')」または「5人の侯爵夫人(''Die fünf Fürstinnen'')」と呼ばれ、1768年頃に形成された〔「5人の侯爵夫人」とは、エレオノーレと姉のカウニッツ侯爵夫人レオポルディーネ、夫の兄のリヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ1世の妻レオポルディーネ(義姉)。それにエレオノーレの従姉にあたるクラリー=アルトリンゲン侯爵夫人ヨーゼファとキンスキー伯爵夫人ジドーニエの姉妹である。彼女らはエレオノーレの父方の伯母ヨーゼファと、その夫の皇帝軍元帥ヘルマン・フリードリヒ・フォン・ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン伯爵の間の娘たちだった。〕。このサークルは1770年頃になるとヨーゼフ2世の寵愛を確固たるものにし、貴族社交界の頂点に立った。ヨーゼフ2世は少なくとも週1度、多い時には週に4度も彼女たちとの社交の時間を楽しんだ。このサークルに自由な出入りを許された男性は、ヨーゼフ2世の他にはいずれも皇帝の親友だった陸軍大将伯爵、侍従長伯爵の2人だけであった。
ヨーゼフ2世はエレオノーレに惹かれ、愛人関係を持とうとしたようだが、エレオノーレは皇帝の恋愛感情に応えようとはしなかった。1772年頃にはそうした話は立ち消えになり、2人の関係は複雑な感情をはらむものに変わった。エレオノーレはヨーゼフ2世が進めようとした性急な政治改革を穏健な形に抑えるのに、かなり貢献した。特に皇帝が啓蒙主義的な観点から攻撃的な宗教政策を始めた時は、これに強く反対した。しかしエレオノーレと皇帝の友情は皇帝の死まで続いた。ヨーゼフ2世は1790年、死の3日前にエレオノーレら「5人の侯爵夫人」に宛て、彼女たちの友情に感謝するとした、生涯最後の直筆の手紙を執筆している〔E・マホフスキー『革命家皇帝ヨーゼフ2世』藤原書店、2011年、185P〕。
1790年にヨーゼフ2世が死去すると、「5人の侯爵夫人」のサークルは特権的な地位を失ったが、エレオノーレ自身はその後も一定の政治的影響力を保った。フランス革命戦争中にオーストリアとフランスの間の和議を話し合うラシュタット会議(1797年 - 1799年)が開かれていた際には、外務大臣男爵が、フランス革命が起きているにも拘らず、未だに親フランス・反プロイセンの外交姿勢を放棄していないことを鋭く批判した。エレオノーレはこの頃、1795年に姉の一人娘と結婚した外交官クレメンス・フォン・メッテルニヒを可愛がるようになった。彼女は外交政策の方向性に関して義理の甥メッテルニヒと意気投合していた。トゥーグートが1801年に失脚した後、メッテルニヒがザクセン駐在大使に任命された際には、エレオノーレの影響力が働いたと言われた。晩年、エレオノーレはメッテルニヒがマリー・ルイーゼ大公女とナポレオンの政略結婚を成立させたことに憤慨し、メッテルニヒと疎遠になった。
エレオノーレは姉との間で文通をしており、彼女の手紙はウィーンの宮廷生活や当時の社会についての様々な証言を提供する史料の1つとなった。19世紀の歴史家アダム・ヴォルフ(Adam Wolf)は、エレオノーレの文通を元に彼女の伝記を執筆している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エレオノーレ・フォン・エッティンゲン=シュピールベルク」の詳細全文を読む




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