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エレナ・チャウシェスク(、1916年1月7日 - 1989年12月25日)は、ルーマニア社会主義共和国の元首であったニコラエ・チャウシェスクの妻。ルーマニア第一副首相。夫の独裁政治を生涯にわたって支え、強大な権力を有した。また、その権力によって名声を得ることになった科学者でもあった。西側諸国からは好感を持たれたが、1985年、ソ連にゴルバチョフ政権が誕生してペレストロイカを推進すると、1989年12月に起きたルーマニア革命で、革命軍に夫と共に処刑(銃殺)された。 ==生涯== ワラキア地方の小さな村で農家の娘レヌーツァ・ペトレスク()として生まれた。幼い頃は活発な性格ではあったが、勉強が大の苦手で、小学校4年生の時に14科目中9科目で落第を取ったことを期に学校を中退し、後にブカレストの工場で勤務。1930年代半ばに、ルーマニア共産党に入党。1939年にニコラエ・チャウシェスクと出会い、1946年に結婚、名をエレナに改めた。結婚後に工業化学を学び、科学研究所で研究者として働いた。また、共産党が権力を握るようになり、彼女は外務省勤務の秘書となる。夫との間に長男ヴァレンティン(実の子ではなく、夫妻が孤児院から引き取った養子)・次男ニク・長女ゾヤの3人の子供があり、1950年代は家族の世話に専念。1960年代になると博士号を取得、科学研究所所長となり、ルーマニアの科学分野の発展に貢献した。 1965年に夫が党の中央書記長になると、ルーマニアの政治的な偶像として注目を集めるようになる。1971年、中華人民共和国への外遊で毛沢東夫人の江青が政治的に影響力を持っていることを知ると、自分も同じような役割を担うことを望み(この時、江青から「指導者の妻はもっと政治に関わるべきだ」とのアドバイスを受けたとされる)、1973年に政治執行委員会の一員となった。1980年には第一副首相の地位にまで登りつめた。さらにこの時期には、夫と共に個人崇拝を強め、科学者としての権威を高めようとした。他人に書かせた100以上の論文を発表し、名誉博士号の収集に熱中した。 子ども好きな性格の持ち主として知られ、学校教育や孤児院の増設などに力を入れたが、政権後期になるとその性格が歪んだ形で表れるようになる。ルーマニア政府が国家政策として避妊と堕胎手術を禁止した上に、法律で女性に5人以上子供を産むことを強要したことにより、後に「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれる大量のストリートチルドレンを生んだことへの責任があるといわれている。また、保健管理委員会の委員長として活躍し、ルーマニア国内の学校や保健所の衛生状況の改善に尽力した。 1989年、ルーマニアは貿易赤字に苦しんでおり、生活水準が低下していた。また、秘密警察(セクリタテア)などの監視による言論の統制などで不満分子を抑圧していたが、西側の情報が僅かに入るにつれ、ついに民衆の不満が爆発したと伝えられている。同年12月、国民の自由獲得への反政府デモや暴動が全国各地で起こり、チャウシェスク夫妻は逃走した。これらの様子は、ルーマニア国営テレビを通じ全国に放送された。翌22日、エレナは夫チャウシェスクと共にヘリで逃走を試みる。22日13時、救国戦線は国営テレビ、ラジオ局を掌握。同17時、救国戦線が政権を掌握した。 23日に、チャウシェスク夫妻はトゥルゴヴィシュテにおいて救国戦線により逮捕される。25日、救国戦線はチャウシェスク夫妻を、6万人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、軍事裁判で銃殺刑の判決が下り、即日処刑された。遺体はブカレストのゲンチャ墓地に、夫と別々に埋葬された。今もチャウシェスク夫妻を慕い、花束を手向ける人も多い。2010年にチャウシェスク支持者により、夫の元の墓と同じ場所に2人を共に葬る立派な墓が改めて建てられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エレナ・チャウシェスク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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