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クワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah、本名:Francis Nwia Kofia Nkrumah、1909年9月21日 - 1972年4月27日)は、政治家。ガーナ初代大統領。ガーナの独立運動を指揮し、アフリカの独立運動の父といわれる。マルクス主義者。1958年、ガーナとギニアから成るアフリカ諸国連合を樹立した。日本語では姓がンクルマと表記される場合もあるが、これは「エンクルマ」が語頭で「ン」を発音することができない英語での読み方であることによる。 == 前半生 == エンクルマは1909年9月21日、イギリス領の植民地ゴールド・コーストの西部海岸にあるンクロフルにて、のサブグループであるンズイマ人(ンゼマ人)の鍛冶屋の家に生まれる。ガーナ南部のアカン人のあいだでは生まれた曜日と性別によって自動的に名前が決まるため、土曜日に生まれた男児である彼にはクワメの名がつけられた〔高根務『ガーナ 混乱と希望の国』p.138, アジア経済研究所、2003年11月7日 ISBN 978-4258051045〕。1927年に首都アクラのアチモタ・スクールに入学し、1930年に卒業後、エルミナのローマ・カトリックの小神学校の教師となり、1年後にはアクシムのカトリックの学校で教鞭をとり、さらに2年後には近郊のアミサノで神学校教師となった〔「わが祖国への自伝」pp33-34 クワメ・エンクルマ著、野間寛二郎訳 理論社 1960年12月発行〕。 幼少より成績優秀だったため、1935年、親族に借金してセコンディ・タコラディ港からアメリカ合衆国に渡り、リンカーン大学に入学した。1935年、イタリアのエチオピア侵攻を聞いて激怒し、植民地制度の打倒を志す。奨学金を取りながら苦学し、1942年、ペンシルベニア大学大学院にて教育学の修士号を、翌年には哲学の修士号を取得〔高根務『ガーナ 混乱と希望の国』p.86, アジア経済研究所、2003年11月7日 ISBN 978-4258051045〕。この間、アメリカやカナダに滞在するアフリカ人留学生の組織化につとめた。このころ、マーカス・ガーベイやC・L・R・ジェームズ、W・E・B・デュボイスの思想に影響を受け、パン・アフリカ主義の立場をとるようになった。 1945年5月にはイギリスに渡り、ロンドンで西アフリカ学生同盟の副会長に就任〔「世界民族問題事典」(新訂増補)p1258 平凡社 2002年11月25日新訂増補第1刷〕して、宗主国で優遇されるアフリカ出身のエリートの説得に奔走した。同年、マンチェスターで開かれた第五回ではのちに盟友となるジョージ・パドモアと共に書記を務めた。この会議にはエンクルマのほか、ケニアのジョモ・ケニヤッタ、マラウイのヘイスティングズ・カムズ・バンダ、ナイジェリアのオバフェミ・アウォロウォなどアフリカ大陸の独立指導者が多く参加し、これまでの欧米在住の黒人にかわってアフリカ大陸出身者がパンアフリカニズムの中心となるきっかけとなった。また、この時に国際会議事務局が設置され、エンクルマとパドモアが書記に、ケニヤッタが書記補に就任した〔「週刊朝日百科 世界の地理102 ガーナ・トーゴ・ベナン・ブルキナファソ」 昭和60年10月6日発行 朝日新聞社 P11-39〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クワメ・エンクルマ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kwame Nkrumah 」があります。 スポンサード リンク
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