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エングリッシャーガルテン(Englischer Garten)またはイギリス庭園は、ドイツのミュンヘン中心部にある大規模な公園で、中心街から市の北に向かって延びている。1789年、ベンジャミン・トンプソン (1753-1814) が作り、後継者の Reinhard von Werneck (1757-1842) やフリードリッヒ・ルードヴィッヒ・フォン・シュケル (1750-1823) が拡張・改修した。 総面積は 3.7 km2、958ha で、都市部の公園としては世界的にも大きく、ニューヨークのセントラル・パークより大きく、ロンドンのリッチモンド公園より小さい。名称はイギリス式庭園に由来し、18世紀中ごろから19世紀初めにかけてイギリスで流行したランスロット・ブラウンに代表される幾何学的でない造園方式を意味する。 == 歴史 == === 始まり === バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフは1777年に子がない状態で死に、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン系統が途絶えた。そのため後継者にはライン宮中伯(プファルツ選帝侯)だったカール・テオドール (1724-1799) が選ばれた。彼はマンハイムに住み続けたいと考えていたため、継承したくなかったバイエルン選帝侯領とオーストリア領ネーデルラントを交換しようとしたが、失敗した。当然ながらミュンヘン市民も彼に反発した〔G. Greindl in 〕。その不幸な雰囲気の中で、カール・テオドールはミュンヘン市の改良に注意を向けた。中でもホーフガルテンの北のアーケードに美術館を作り、庭園と美術館の両方を一般に開放した(庭園は1780年、美術館は1781年に公開)〔E. D. Schmid in 〕。 ミュンヘンには公園がホーフガルテンしかなく、何か新たなものが必要とされていた。しかし、それがイギリス庭園を造る主な動機となったわけではない。むしろベンジャミン・トンプソンが進めていた軍隊改革の一部として行われたもので、彼は後にランフォード伯となり、バイエルンの戦争大臣を務めた。アメリカのマサチューセッツに生まれたトンプソンは、アメリカ独立戦争ではイギリス側として働き、イギリスの敗北後はヨーロッパに移住して1784年にカール・テオドールの下で勤めていた〔; S. Miedaner in 〕。1788年、トンプソンは平時に兵士の大多数に農業や造園業などの民間の仕事に従事する許可を与えるべきだと提案〔S. Miedaner in 〕。1789年2月、カール・テオドールは各都市の守備隊がそれぞれの都市に軍隊の庭園を配置することを命じた。それらの庭園は造園作業を通して兵士に農耕への知識を授けると同時に保養所としての役目も持ち、さらに一般への開放も意図されていた。 ミュンヘンでの庭園は市街地のシュバービンガー門の北に計画された。そこは中世を通してヴィッテルスバッハ家の狩猟地だった場所で ''Hirschanger'' または ''Hirschau''(「鹿囲い」の意)と呼ばれていたが、元々庭園に含まれていなかった北端部は "Lower Hirschau" と呼ばれるようになった。南部の木々が茂った地域は ''Hirschangerwald'' と呼ばれている。この地域はミュンヘンを流れるイーザル川の氾濫原だった。1790年、技師 Anton von Riedl が護岸堤防を作りその問題が解消された。 軍事庭園の工事は1789年7月に始まり、間もなく800メートル×200メートル弱の部分が整地された。すぐにこれを公園として拡張するというアイデアが生まれ、軍事庭園はそのごく一部となった。1789年8月13日、カール・テオドールは ''Hirschanger'' を一般市民に開放すると宣言。同年8月初めには、イギリスで風景式庭園を学びカール・テオドールの下でシュヴェッツィンゲン城で働いていたフリードリッヒ・ルードヴィッヒ・フォン・シュケルを呼び寄せ、プロジェクトに参加させた。公園開発に関連して様々な付随プロジェクトが開始された。当時創設された陸軍士官学校の庭 "Elevengarten"、牛の農場 "Schweizerey"、羊の農場 "Schäfery"、農耕技術の改良を目指す農業学校 "Ackerbauschule"、家畜の治療のための獣医学校 "Vihearzneyschule" などが造園・建設された。それらの多くは公園内に長く置かれたわけではなく、例えば獣医学校はミュンヘン大学の獣医学部となっている。フェテリンエル通りには1790年から存在する庭園の門がある〔C. Karnehm in ; Geschichte der Tierärztlichen Fakultät München , faculty history page. (German)〕。元々は「テオドール公園」と名付けられたが、すぐに「イギリス庭園」という説明的な名称が一般化した〔1793年のガイドブックのタイトルは ''Skizze des neu angelegten englischen Gartens oder Theodors Park zu München''(ミュンヘンに新たにできたイギリス庭園またはテオドール公園のスケッチ) だった。詳しくは 〕。1790年5月までに大部分が完成し、カール・テオドールが視察に訪れている。しかし、約4万人のミュンヘン市民に一般公開されたのは公式には1792年春のことだった〔E. Schmid in ; 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エングリッシャーガルテン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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