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エンドレ1世 ( リダイレクト:アンドラーシュ1世 ) : ウィキペディア日本語版 | アンドラーシュ1世[あんどらーしゅ1せい]
アンドラーシュ1世 (ハンガリー語:I. András, 1015年頃 - 1060年12月6日以前)は、ハンガリー王。エンドレ1世(I. Endre)ともいう。アールパード家の一門。15年間の亡命生活後、異教徒のハンガリー人らが起こした大規模反乱の最中に王位に就いた。しかし、かれは王国のキリスト教化を強力に進め、神聖ローマ帝国に対するハンガリー王国の独立性を保つのに務めた。自身の嫡子シャロモンを後継にしようとしたことが、実の弟ベーラ(のちのベーラ1世)が武力を持って甥から王位を奪うべく反乱を起こすきっかけとなった。 == 幼年期 == アンドラーシュは、初代ハンガリー王イシュトヴァーン1世の従弟にあたるヴァズル公の次男として生まれた。母親はおそらく、異教の装束を未だ身につけていたヴァズルの側室であったとされる〔一部の現在の情報では、ヴァズルはアンドラーシュ、レヴェンテ、ベーラの3兄弟を生んだブルガリア王女カトゥン・アナスタシアと結婚していたと主張されている〕. 1031年9月2日、イシュトヴァーン1世の一人息子イムレがイノシシ狩りの事故で死んだ。王は、キリスト教化が半ばしか進んでいないハンガリーを異教の国へ戻すつもりはなく、自身の政策を継承する者が王位に就くことを望んでいた。彼は妹の息子でヴェネツィア共和国元首の子であるオルセオロ・ペーテルを後継をすることを画策した。しかし、ヴァズル公は異教の装束であることや、王の殺害をもくろむ陰謀に加担したのではないかと疑われた。暗殺事件は失敗し、ヴァズルは捕らえられて両目をくりぬかれ、両耳に熱して溶けた鉛を注ぎ込まれて殺害された。彼の3人の息子たちは国外へ逃亡した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンドラーシュ1世」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Andrew I of Hungary 」があります。
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