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パトリック・エムボマ(, 1970年11月15日 - )は、カメルーン出身の元同国代表サッカー選手。 唇を閉じて「ンボマ」と発音するのが正しいが、フランス時代に誤って「」と綴られたため「エムボマ」と呼ばれるようになったとされる。 == 来歴 == カメルーン、ドゥアラ生まれ。2歳の時に家族と共にフランスに移住したためフランスとの2重国籍。そのため、EU圏内では外国人選手扱いにならなかった。代表ではカメルーン代表を選択した。 パリのスタード・ドゥレスト()でキャリアをスタート、後にパリ・サンジェルマンFCに移籍。1993-94シーズンには3部リーグのLBシャトールーに貸し出され、ここでは29試合出場17得点と活躍。パリ・サンジェルマンに戻るも出番には恵まれず、1995-96シーズンには1部リーグのFCメスに貸し出される。 1997年にJリーグのガンバ大阪に移籍。圧倒的な身体能力を発揮し、28試合出場25得点の大活躍、強烈な存在感を示した。「浪速の黒豹」と呼ばれ、応援スタンドには「神様 仏様 エムボマ様」の垂れ幕が踊った。ベルマーレ平塚戦では驚異的なリフティングシュートを決めた。エムボマを抑えることのできるディフェンダーは日本には存在せず、元日本代表の中田英寿は「あんなやつがサッカーやっているなんて反則だよ (それほど衝撃的だった)」とコメントしており、元日本代表の秋田豊は「(フランスワールドカップで対戦した元アルゼンチン代表)ガブリエル・バティストゥータよりもエムボマのほうが凄かった」とコメントしている。これと並行するように、カメルーン代表でもエースとしてフランスW杯・アフリカ予選で活躍した。1998年に行われたFIFAワールドカップ・フランス大会にもレギュラーとして出場するが、この時はチーム事情によりボランチとしての出場であったため、グループリーグ第3戦での得意のヘッドによる1得点のみにとどまってしまった。 1998-99シーズンからは再びヨーロッパに舞台を移し、イタリア・セリエAのカリアリやパルマ、イングランド・プレミアリーグのサンダーランドでもプレイするが、個人能力の高さがあだとなったか、イタリアでは戦術になじめず、その影響からかイングランドでもついに本領を発揮することはできなかった。しかし、カメルーン代表としては着々とキャリアを積み、2000年にはシドニーオリンピックにオーバーエイジで出場し金メダルに導き、またアフリカ年間最優秀選手賞も受賞。代表の兄貴分として、サミュエル・エトオをはじめ選手にも慕われた。 2002年FIFAワールドカップ日韓大会にも出場。しかし、直前に両足踵を痛めてしまい、3試合1得点と、本来の動きを取り戻せないまま、1次リーグ敗退に終わった。2003年からはJリーグの東京ヴェルディ1969でプレー。今度は公募により制定された愛称「ボマちゃん」で親しまれる。スピードや体力の衰えは感じられたものの、持ち前のテクニック、強力なミドルシュートは健在で、経験を生かしたプレーで、多くのディフェンダーを圧倒した。 2004年のアフリカ選手権では得点王を獲得。2004年シーズンは膝の古傷が完治せず、途中出場が続くようになり、当時の監督オズワルド・アルディレスと関係がこじれてしまう。結局、ヴェルディを退団し、ヴィッセル神戸に移籍するものの、最後まで本来の輝きを取り戻せなかった。 2005年は度重なる故障のため4試合出場0得点と精彩を欠き、5月16日に現役を引退した。 現在は、カメルーン代表のアドバイザーを経て、実業家として会社を経営。また、2008年1月にはMF鈴木規郎がフランスのクラブチーム、アンジェに短期留学した際のコーディネイターを務めるなど、FIFA公認代理人としての活動もしている。 2010年9月、2022 FIFAワールドカップを日本で開催するための「招致アンバサダー」に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パトリック・エムボマ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Patrick M'Boma 」があります。 スポンサード リンク
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