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エンリケ・メサ・エンリケス(Enrique Meza Enriquez、1948年3月3日 - )は、メキシコ・シウダ・デ・メヒコ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。息子のエンリケ・マキシミリアーノ・メサもサッカー指導者である。 == 指導者経歴 == 1982年、選手時代の古巣クルス・アスルの監督に就任して指導者の道を歩み出した。1992年から1995年にもクルス・アスルの指揮を執り、1994-95シーズンにはリギージャ(プレーオフ)決勝に駒を進めたが、クラブ・ネカクサに敗れた。1995年から1996年にはモナルカス・モレリアの指揮を執ったが、指導者として注目を集めたのは1996年にトロス・ネサの監督に就任してからである。トロス・ネサは非常に攻撃的なスタイルを見せ、ベラーノ1997のレギュラーシーズンの17試合でリーグ最多の40得点を挙げた。リギージャではUNAMプーマスとネカクサを破って決勝に進出したが、チーバス・グアダラハラに2試合合計2-7で敗れた。 リギージャの決勝後すぐ、デポルティーボ・トルーカFCの監督就任が発表された。トルーカでは結果と内容を両立させ、わずか2年の在任期間中にベラーノ1998、ベラーノ1999、ベラーノ2000と3度の優勝を果たした。2000年にトルーカを離れ、マヌエル・ラプエンテ監督の後任としてメキシコ代表監督に就任。しかしチームのパフォーマンスは期待以下であり、就任からわずか数カ月で辞任した。 2006年にはCFパチューカの監督に就任した。就任後すぐは成績が低迷したが、ゆっくりとチームを組み換え、同年のコパ・スダメリカーナで初優勝を飾った。メキシコのクラブが南米サッカー連盟(CONMEBOL)主催大会で優勝するのは初めてのことである。2007年のCONCACAFチャンピオンズカップではチームとして2度目の優勝を飾り、クラウスーラ2007ではチームとして9度目の優勝を飾った。7月には第1回スーパーリーガに出場し、メジャーリーグサッカーのロサンゼルス・ギャラクシーをPK戦の末に下して優勝した。12月には日本で開催されたFIFAクラブワールドカップに出場したが、初戦のエトワール・サヘル(チュニジア、アフリカ代表)戦に0-1で敗れ、6位で大会を去った。2008年4月にはCONCACAFチャンピオンズカップで2連覇を果たした。12月には日本で開催されたFIFAクラブワールドカップに出場し、初戦のアル・アハリ(エジプト、アフリカ代表)戦には4-2で勝利したが、準決勝のLDUキト(エクアドル、南米代表)戦には0-2で敗れた。3位決定戦ではガンバ大阪(日本、開催国代表)に0-1で敗れ、4位となった。クラウスーラ2009ではレギュラーシーズン1位でリギージャに進出し、リギージャではチアパスFC、インディオス・デ・シウダ・フアレスを破って決勝に進出したが、決勝ではリカルド・フェレッティ監督率いるUNAMプーマスに2試合合計2-3で敗れた。2009年6月1日にはパチューカとの契約が満了して退任した。 2009年には再びクルス・アスルの監督に就任。2010年7月28日、ハビエル・アギーレ監督が退任して空いたメキシコ代表の暫定監督に就任した。8月11日にはエスタディオ・アステカに2010 FIFAワールドカップ王者のスペイン代表を迎え、1-1の引き分けに持ち込んだ。2012年5月18日には再びトルーカ監督(テクニカルディレクター兼任)に就任し、アペルトゥーラ2012ではトルーカを率い、レギュラーシーズン1位でリギージャに進出。リギージャではチーバスとクラブ・アメリカを破ったが、決勝ではレギュラーシーズン2位のクラブ・ティフアナに敗れた。2013年9月3日、パチューカ監督(テクニカルディレクター兼任)に就任し、監督の座をガブリエル・カバジェロから引き継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エンリケ・メサ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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