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エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン(Erich von Falkenhayn、1861年11月11日 - 1922年4月8日)は、ドイツ帝国の軍人。第一次世界大戦において同国の陸軍参謀総長を務めた。 == 経歴 == 西プロイセンの都市グラウデンツ近郊のブルクベルハウ(現在のポーランド・クヤヴィ=ポモージェ県の)出身。士官学校を卒業後、1880年にオルデンブルク歩兵連隊に少尉として任官。1890年には参謀本部に配置される。1896年に清朝中国に士官学校の教官として赴任し、1900年の義和団の乱に遭遇。その後、アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー将軍麾下の東アジア派遣軍の参謀となり、同地に1903年まで赴任。ドイツ各地の任地に配属された後の1913年、プロイセン王国の軍事大臣となった。 1914年にサラエヴォ事件が発生するとドイツの参戦を主張。第一次世界大戦勃発後、マルヌの戦いでドイツの攻勢が頓挫すると、9月14日に小モルトケの後任として参謀総長に就任した。フランスへの侵攻作戦であるシュリーフェン・プランの失敗から、西部戦線の陣地構築に尽力し、イギリス軍とフランス軍の反攻を一時食い止める。ドイツの完全勝利に悲観的な見通しを持ち、11月18日に外交交渉で戦争を終わらせるよう主張する覚書を政府に送ったが、聞き入れられなかった。このためタンネンベルクの戦いでロシア軍を痛撃して楽観的見通しを持っていたパウル・フォン・ヒンデンブルクやエーリヒ・ルーデンドルフと対立するようになった。ルーデンドルフには「犯罪者」呼ばわりされたうえ、1915年1月にはプロイセン王国軍事相を解任された。 停戦交渉でのドイツの立場を有利にするため、西部戦線に戦力を集中し、消耗戦の概念に基づいてフランス軍の人的損耗を極限まで引き出すためにヴェルダンを攻撃するゲリヒト(裁判)作戦を立案。それによって1916年2月21日からヴェルダンの戦いが始まった。この戦いによってフランス陸軍に痛撃を加えたものの、ドイツ軍自身も50万の兵士を無意味に失い、また作戦実行に大量の兵員と補給品を必要としたため、ブルシーロフ攻勢、ソンム攻勢を受けて他方面に補給を行う必要が生じると戦場を放棄せざるを得なくなった。そもそもファルケンハインもフランスがこのやり方で音を上げるとは思っていなかった。同年8月29日、陸軍参謀総長を辞任。後任はヒンデンブルクだった。 その後はルーマニア戦線の第9軍、パレスチナ戦線の作戦を指揮。オスマン帝国元帥としてトルコ軍を指揮したが、イギリス軍によるパレスチナ攻略を阻止できなかった。1918年2月にベラルーシの第10軍司令官に転じ、そこで終戦を迎えた。 戦後は軍を離れて隠棲し、第一次世界大戦に関する著述を多く行う。1922年、ポツダム近郊シュロス・リンドシュテットで没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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