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エーリヒ・フォン・マンシュタイ : ミニ英和和英辞書
エーリヒ・フォン・マンシュタイ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エーリヒ・フォン・マンシュタイ ( リダイレクト:エーリッヒ・フォン・マンシュタイン ) : ウィキペディア日本語版
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン[ちょうおん]

フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタイン(Fritz Erich von Lewinski genannt von Manstein, 1887年11月24日 - 1973年6月10日)はドイツ陸軍軍人貴族。最終階級は元帥
第二次世界大戦で活躍した将帥たちの中でもとりわけ有能な将帥として知られる〔ヴィストリヒ(2002)p.270〕〔山崎(2009)、p.40〕。彼は西方電撃戦の立案者であり、後にクリミア半島レニングラード攻撃を指揮し、その後、スターリングラード攻防戦後に優位に立った赤軍の攻勢を食い止め、第三次ハリコフ攻防戦でハリコフを陥落させた。これは緒戦におけるキエフ包囲戦に並び、東部戦線におけるドイツの最も大きな勝利の1つである。
彼は最高指導者であるヒトラーの決定に逆らわなかったが、対案を具申し、ヒトラーに対してはっきりと意見を開陳する数少ない将軍の1人だった。その名将ぶりは戦時中のアメリカでも知られ、「タイム」でも醜悪な顔に描かれることなく毅然とした顔で表紙を飾り、「我らの最も恐るべき敵」と評された〔クノップ(2002)、p.226〕〔タイム1944年1月10日号 〕。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
ドイツ帝国領邦プロイセン王国首都ベルリンエドゥアルト・フォン・レヴィンスキー(de)砲兵大将 (1829年 - 1906年)とその妻ヘレーネ(旧姓フォン・シュペルリンク(von Sperling))(1847年 - 1910年)の間の第10子フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー(Fritz Erich von Lewinski)として生まれた〔Lexikon der Wehrmacht "von Lewinski, Fritz Erich, genannt von Manstein" 〕。父のフォン・レヴィンスキー家(de)も母のフォン・シュペルリンク家もプロイセン貴族であり、代々軍人の家系である〔Barnett(2003)、p.222〕。
母の妹ヘートヴィヒ・フォン・シュペルリンク(Hedwig von Sperling)(1852年 - 1925年)はゲオルク・フォン・マンシュタイン(Georg von Manstein)中将(1844年 - 1913年)と結婚していたが、彼らには子供がなく、エーリヒは生まれる前から彼らの養子になることが決められていた〔クノップ(2002)、p.178〕。これによって彼の姓は「フォン・レヴィンスキー・ゲナント(公称は)・フォン・マンシュタイン」という二重姓になる〔。エーリヒが生まれた時、レヴィンスキー大将はマンシュタイン中将に「本日、君は元気な男の子を得た。母親と子供は元気だ。おめでとう」との電報を送った〔。マンシュタイン家は14世紀に皇帝による叙爵制度が誕生する前から貴族だったプロイセン古貴族と呼ばれる家柄であり、17世紀のフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯の時代から代々軍人の家系だった〔。
このような名門軍人家系の出自に加え、彼の母の妹ゲルトルート・フォン・シュペルリンク(Gertrud von Sperling)はヒンデンブルク元帥の妻という縁故があった〔Barnett(2003)、p.222〕〔ゲルリッツ(1998)、p.524〕。従ってマンシュタインの軍における出世は誕生時から保証されていた。
生まれはベルリンだが、育ちはベルリンではない。マンシュタインの父は軍人であったため、父の配属先にしたがってドイツ各地を転々とすることになったのである〔ゴールデンソーン(2005)、p267〕。1896年から1900年まで父の転勤先であるシュトラスブルク(当時プロイセン領。現フランスストラスブール)の小学校に通っている〔〔ゴールデンソーン(2005)、p268〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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