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オスカル・ロメロ : ミニ英和和英辞書
オスカル・ロメロ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


オスカル・ロメロ : ウィキペディア日本語版
オスカル・ロメロ

オスカル・アルヌルフォ・ロメロ・イ・ガルダメス (Óscar Arnulfo Romero y Galdámez, 1917年8月15日 - 1980年3月24日) はエルサルバドルカトリック司祭サンサルバドル教区大司教。カトリック教会の福者である。
ロメロ大司教は多数の人権侵害を証言し、貧困層の人々の側に立ち、エルサルバドル内戦の犠牲者を代表して世界に訴える務めを担うことを選んだ。しかし、彼の取組みは政治的行動主義であるとしてカトリック教会の上層部とエルサルバドル政府から非難を受けることになった。1980年ロメロ大司教はミサの司式の最中に狙撃を受けて暗殺された。彼の死はエルサルバドルにおける人権改革を求める国際的な抗議の声を呼び起こすことになった。
1997年にはロメロ大司教の列福列聖調査が開始され、ヨハネ・パウロ2世は彼を神の僕(福者・聖人にいたる最初の段階)とした。公式なものではないがロメロはアメリカ州とエルサルバドルの守護聖人と人々からみなされるようになり、エルサルバドルなどでは「聖ロメロ」とさえ呼ばれている。彼は聖公会などのカトリック以外のキリスト教の共通信仰の教派からも敬愛されている。彼はロンドンのウェストミンスター寺院の大西扉の「20世紀の殉教者10人」の1人に選ばれ、その胸像が飾られている。
== 生い立ち ==
ロメロはサンミゲル県シウダード・バリオスで8人兄弟の2人目として生まれた。彼は病気のために学校へ行かず、また12歳になると見習い大工として働き始め、あまり教育を受けられなかった。1931年ロメロはサンミゲルの神学校に入り6年間学んだが、家族の経済状況の為に3ヶ月間金鉱山で働いた。1937年ロメロはサンサルバドルの別の神学校で7ヶ月学び、グレゴリアン大学で学ぶようにローマへ送られた。1942年4月4日ロメロは司祭に叙階され、その後博士課程で修徳神学を学んでいたが1943年第二次世界大戦の為に勉学を中断してヨーロッパを離れ、エルサルバドルに戻った。ロメロはラウニオン県のアナモロスで教区司祭としてのキャリアを始め、サンミゲルに転属され同地で20年以上働いた。ロメロは使徒的活動グループを支え、アルコホーリクス・アノニマス(AA、アルコール依存症の自助グループ)の活動を支援し、大聖堂の建設をすすめ、平和の聖母の信心会を創設して指導した。彼はサンサルバドルの超教区神学校でも教壇に立つようになった。1966年にエルサルバドル司牧会議の議長に選ばれたことで彼のより公的な生活が始まった。彼は司教区新聞 ''Orientation'' の責任者にも任じられた。彼の編集当時の論調は保守的だった。1970年にロメロはルイス・チャベス・イ・ゴンサレス司教の補佐司教に任じられた。彼は保守的と思われていたため、この人事はリベラルな聖職者たちから歓迎されなかった。1974年10月15日、ロメロはサンチアゴ・デ・マリア教区の司教に任じられた。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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