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東プロイセン(ひがしプロイセン、; ; )は、ヨーロッパのバルト海の南岸にある地域の歴史的な地名。ワイクセル川(ヴィスワ川)とメーメル川(ネマン川)に挟まれている〔。東プロシア、あるいはオストプロイセンとしても知られている。1772年のポーランド分割で正式に東プロイセンと呼ばれるようになり、第二次世界大戦まではドイツのプロイセン州北東端の地域であった〔木村靖二「東プロイセン」世界民族問題事典、平凡社、2002〕。 現在は大部分がポーランドとロシア、北端の一部分がリトアニアの統治下にある。 == 歴史 == === ドイツ騎士団 === 元々バルト系のプルーセン人が住み、古プロイセン語が話されていた。 1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて〔東欧史、山川出版社, 1977 p183〕、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。騎士団は征服し、教皇の名の下、教皇としてプロイセンを統治し布教した。プルーセン人はカトリックに改宗、ドイツ騎士団国となった。ドイツ人の東方植民によりドイツ系住民が増大し、彼らはバルト・ドイツ人と呼ばれるようになる。ドイツ人人口が大多数となり、何世紀かの間にプルーセン人はドイツ化し、少数民族にはポーランド人とリトアニア人がいた。プレーゲル川の河口の港町ケーニヒスベルク(ハンザ同盟都市)は、琥珀など流域の物資を集散しバルト海を通じて交易するこの地域の中心都市として繁栄していた。 ドイツ騎士団はマリーエンブルクの町に建てられたマリーエンブルク城に本拠を構えたが、在地の農民やスラブ人達はしばしばドイツ騎士団の支配に対して反乱を起こした。 1525年、ドイツ騎士修道会総長でホーエンツォレルン家のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクはプロテスタントに改宗し、世俗の「プロイセン公」となってドイツ騎士団国の東プロイセンにプロイセン公国を創設した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東プロイセン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 East Prussia 」があります。 スポンサード リンク
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