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オセールのレミギウス(、841年頃 – 908年)あるいはオセールのレミ()とはカロリング朝期のベネディクト会修道士、ラテン語文法学教師、多産な古典ギリシア語・ラテン語文献注釈者。また、自身以外の初期中世の思想家が作成した古典文献注釈書を収集・編纂したとされる〔"Un commento del commento", according to C. Marchese, "Gli scoliasti di Persico" ''Rivita di Filologia''39-40 (1911-12), noted by J. P. Elder, "A Mediaeval Cornutus on Persius" ''Speculum'' 22.2 (April 1947, pp. 240-248), p 240, note; 243f.〕。 '39-40 (1911-12), noted by J. P. Elder, "A Mediaeval Cornutus on Persius" ''Speculum'' 22.2 (April 1947, pp. 240-248), p 240, note; 243f.〕。 22.2 (April 1947, pp. 240-248), p 240, note; 243f.〕。 ==生涯== レミギウスは、おそらくブルゴーニュに生まれ〔Cora E. Lutz, ed. ''Remigii Autissiodorensis commentum in Martianum Capellam'', (Leiden: E.J. Brill, 1962), p. 1.〕、フェリエールのルプスおよびオセールのヘイリクス(876年没、自身はヨハネス・スコトゥス・エリウゲナの弟子)の弟子となった〔Margaret T. Gibson, “Boethius in the Carolingian Schools,” Transactions of the Royal Historical Society, Fifth Series, Vol. 32, (1982), p. 48.〕。また、レミギウスは注釈書を作成する上で、アイルランド人の教師達、つまりランのドゥンカルドゥス、エリウゲナ、セドゥリウス・スコトゥス、マルティヌス・スコトゥスらから多くを借用した。「学問上のグレシャムの法則に従い、レミギウスの自著への借用を寛大にも許した諸書は、そうしてできたレミギウスの著書によってこの分野から駆逐されるにいたるのがつねであった」とJ. P. Elderは指摘している〔J. P. Elder, "A Mediaeval Cornutus on Persius" ''Speculum'' 22.2 (April 1947, pp. 240-248), pp 243f.〕。ジョン・マレンボンは同じ現象をより肯定的な観点のもとにおいて〔John Marenbon, ''Early Medieval Philosophy (480-1150): An Introduction'', (London: Routledge with Kegan Paul, 1983), p. 86.〕、レミギウスによる古典的文献に対する9世紀の注釈の選集(彼自身のものもあれば彼が集めてきたものもある)は後の研究者に初期中世の思想家の著作だけでなく古代ギリシア語・ラテン語や哲学のはっきりした要素も残したと主張している〔M. Esposito, “A Ninth-Century Commentary on Donatus,” ''The Classical Quarterly'', Vol. 11, No. 2 (April 1917), p. 97.〕。後代の報告によると、レミギウスの選集は後期中世において、特に12世紀においてヨーロッパ中で用いられたという〔Lutz, 1.〕。 彼はオセールのサン・ジェルマン修道院で教え、876年にヘイリクスが死んでからは修道院学校長になった。883年には大司教フルクスにランス聖堂学校で教えるよう招聘され、893年にはその学頭に任じられた。900年にフルクスが死ぬと、レミギウスはパリで教えるためにランスを発ち、以降死ぬまでパリに留まった。そのころまでにレミギウスは「優秀博士」(羅:egregius doctor)、「神の聖典と人間の聖典の両方を学んだ」(羅:in divinis et humanis scripturis eruditissimus)などと言われ盛名をはせた〔Lutz 1〕。教師として、レミギウスは普遍の問題に関心を持ち、エリウゲナの極端な実在論と自身の師ヘイリクスの反実在論を調停しようとしたと考えられている。概して彼は古典古代の文献とキリスト教の聖典の両方を弟子に教えられるようなやり方で解釈しようとしており、自分たちの生きているキリスト教世界に古代哲学を適用する方法を探究した〔Marenbon, ''Early Medieval'', 78.〕。彼が考察した文献は非常に多くさまざまであったが、彼の主な注釈は末期ローマの哲学者ボエティウスやマルティアヌス・カペッラに関するものであって、レミギウスは彼らの作品の中にキリスト教神学と共存できる柔軟なアレゴリーを見出した〔He also investigated the problem of the origin of the universe and in his commentary on Martianus Capella gave a Christian interpretation to the passages in which Martianus Capella speaks of the invisible world of Platonic ideas. ''From the Catholic Encyclopedia, 1913.''〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オセールのレミギウス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Remigius of Auxerre 」があります。 スポンサード リンク
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