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オットー・ゴルトシュミット : ミニ英和和英辞書
オットー・ゴルトシュミット[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

オットー・ゴルトシュミット : ウィキペディア日本語版
オットー・ゴルトシュミット[ちょうおん]

オットー・モーリッツ・ダフィット・ゴルトシュミットOtto Moritz David Goldschmidt, 1829年8月21日 - 1907年2月24日)は、ドイツ作曲家指揮者ピアニスト。ピアノ協奏曲やピアノ曲などの作品を遺した。妻は「スウェーデンナイチンゲール」と呼ばれたソプラノ歌手ジェニー・リンド
== 生涯 ==

ハンブルクに、ユダヤ人商人であったモーリッツ・ダフィット・ゴルトシュミット (Moritz David Goldschmidt) と女性権利活動家のヨハンナ・ゴルトシュミット (Johanna Goldschmidt) を両親として生まれた。裕福で教養の高い両親はドイツの進歩的な改革派に属していた。母ヨハンナは優れた歌手、ピアニスト、ヴァイオリニスト、ハーピストでもあり、音楽の才能に恵まれた彼女はゴルトシュミットら8人の子どもたちに音楽教育を受けさせた。ゴルトシュミットは1843年から1846年の間ライプツィヒ音楽院に在籍し、ハンス・フォン・ビューローフェリックス・メンデルスゾーンモーリッツ・ハウプトマンの下で学んだ。また、クララ・シューマンからも個人的にレッスンを受けていた。メンデルスゾーンからは次のような学生証明書を受け取っている。

1852年2月5日、世界的に有名だったソプラノ歌手のジェニー・リンドとボストンで結婚した〔Wedding with Lind ''The New York Times''〕。妻を喜ばせるため、彼はプロテスタントに改宗した。夫妻は3人の子に恵まれた。1858年からは家族とともにロンドンに移り、その地で1863年王立音楽アカデミー教授、さらに後には声楽科長に就いた。ロンドンでは、夫妻はアーサー・サリヴァン、ルドルフ・レーマン(Rudolf Lehmann, 1819年生まれのドイツ系イギリス人肖像画家・作家リザ・レーマンの父親)、チャールズ・ディケンズなどが所属する、ドイツ系イギリス人の知識人のサークルに所属していた。1863年に、ウィリアム・スタンデール・ベネットと共同で『英国の合唱読本』(''Chorale Book of England'') を著している。1876年にはバッハ合唱団 (The Bach Choir) を設立し、1886年まで率いた。同合唱団は現在220人の活動メンバーがおり、演奏の質を維持するため3年ごとに選抜を行っている。ゴルトシュミットはこの他に、幾度かデュッセルドルフの下ライン音楽祭で指揮をしている。
1887年に妻ジェニーに先立たれ、彼女の伝記『ジェニー・リンド その芸術家としての道程』(''Jenny Lind. Ihre Laufbahn als Künstlerin'') を1891年に著した。1907年、ロンドンで死去。77歳だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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