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オットー・フォン・ビスマルク : ミニ英和和英辞書
オットー・フォン・ビスマルク[びす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ビス : [びす]
  1. (fr:) (n) (1) screw (fr: vis) 2. -bis (again, second version) (fr: bis) 3. BIS (Bank of International Settlements) 4. (fr:) (n) (1) screw (fr: vis)/(2) -bis (again, second version) (fr: bis)/(3) BIS (Bank of International Settlements)

オットー・フォン・ビスマルク : ウィキペディア日本語版
オットー・フォン・ビスマルク[びす]

オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(, 1815年4月1日 - 1898年7月30日)は、プロイセン及びドイツ政治家貴族プロイセン王国首相(在職1862年-1890年)、北ドイツ連邦首相(在職1867年-1871年)、ドイツ帝国首相(在職1871年-1890年)を歴任した。ドイツ統一の中心人物であり、「鉄血宰相()」の異名を取る。
プロイセン東部の地主貴族ユンカーの出身。代議士・外交官を経て、1862年プロイセン国王ヴィルヘルム1世からに任命され、を断行してドイツ統一戦争に乗り出した。1867年普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を樹立し、ついで1871年普仏戦争の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国を樹立した。プロイセン首相に加えてドイツ帝国首相も兼務し、1890年に失脚するまで強力にドイツを指導した。文化闘争社会主義者鎮圧法などで反体制分子を厳しく取り締まる一方、諸制度の近代化改革を行い、また世界に先駆けて全国民強制加入の社会保険制度を創出する社会政策を行った。卓越した外交力で国際政治においても主導的人物となり、19世紀後半のヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築した。
== 概要 ==
1815年プロイセン王国東部のにユンカーの息子として生まれる。文官を目指し、 ゲッティンゲン大学ベルリン大学で法学を学ぶ。1835年に大学を卒業し、官吏試補となるも職務になじめず、1839年からユンカーとして地主の仕事をする(''→政界入りまで'')。
1847年身分制議会のの代議士となり、政界入り。1849年に新設されたの代議士にも当選する。代議士時代には強硬保守派として行動した。正統主義に固執し、1848年革命で高まりを見せていた自由主義ナショナリズム運動、国民主権の憲法によるドイツ統一の動きを批判した。裁判官ルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハとその兄で国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の寵臣である侍従武官長レオポルト・フォン・ゲルラッハ将軍に近い立場をとり、革命で誕生した自由主義政府を牽制するためにゲルラッハ兄弟が宮廷内に組織した「影の政府」の「」に参加した(''→代議士'')。
1851年にプロイセン全権公使となり外交官に転身。ドイツ連邦議長国オーストリア帝国との利害対立の最前線に立つ中でオーストリアを排除した小ドイツ主義統一の必要性を痛感するようになり、オーストリアとの連携を重視する神聖同盟などの正統主義の立場から離れるようになる。保守主義者・君主主義者の矜持は保ちつつ、正統性がないとされていたナポレオン3世フランス帝国や小ドイツ主義統一を目指す自由主義ナショナリズム勢力との連携を模索するようになった(''→連邦議会プロイセン公使、→反墺親仏派に'')。
1858年に皇太弟ヴィルヘルム王子(ヴィルヘルム1世)摂政となり、自由主義的保守派貴族による「」内閣が発足すると強硬保守派と看做されていたビスマルクは駐ロシア大使に左遷されたが、クリミア戦争以来オーストリアを恨んでいたロシアの宮廷・政治家から反墺的態度を歓迎された。イタリア統一戦争の際にもプロイセンが反墺的中立をとるよう尽力した(''→駐ロシア大使に左遷、→イタリア統一戦争をめぐって'')。
1861年に国王に即位したヴィルヘルム1世と陸軍大臣アルブレヒト・フォン・ローン中将は軍制改革をめぐり、その予算を「軍隊に対する王権強化」と看做して通そうとしない衆議院の自由主義派議員と対立を深めていった。国王側近たちが衆議院に対するクーデタ論に傾く中、ローンはクーデタによらず解決を図りたいと考え、同様の考えのビスマルクの首相就任を希望するようになった。1862年、無予算統治を決意したヴィルヘルム1世は、その覚悟がある者としてローンが推薦するビスマルクをに任命した(''→自由主義勢力の台頭、→首相任命'')。
首相に就任するや衆議院予算委員会で鉄血演説を行い、ドイツ問題でプロイセンが優位に立つためには軍拡が必要である旨を訴え、自由主義者に軍制改革を支持させようとしたが、逆に批判を受ける。この演説で「鉄血宰相」の異名を取るようになった(''→鉄血演説'')。自由主義派の支持が得られそうにないと見るや無予算統治で軍制改革を断行した。これによって無予算統治を違憲とする自由主義派との間にが巻き起こった(''→自由主義者との対立'')。
この国内的亀裂は、三度の小ドイツ主義統一に関する戦争に勝利して自由主義派の支持を獲得することで解決に向かう。その最初の戦争は1864年デンマークに併合されそうになったシュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国をめぐって、オーストリアとともに起こした対デンマーク戦争だった。イギリスの干渉を抑えてこの戦争に勝利したことで両公国からデンマークの支配権を排除することに成功し、ドイツ・ナショナリズムからのプロイセンの評価を高めた(''→対デンマーク戦争'')。
ついで両公国の帰属をめぐってオーストリアと対立を深めた。同時期オーストリアに保守政権が樹立されるとこれを利用してを締結し、ドイツ・ナショナリズムにおけるオーストリアの威信を低下させた。またビアリッツでナポレオン3世と密約を結び、フランスの中立の確信を得たといわれる(''→深まるオーストリアとの対立、→ガスタイン協定とビアリッツの密約'')。
1867年普墺戦争を開始し、短期間で勝利を収めた。フランスの領土欲を抑えながら、オーストリアに寛大な講和条件を提示して戦争を早期終結させた。これによりオーストリアをドイツ問題から排除し、プロイセン一国覇権の北ドイツ連邦を樹立することに成功した。ただしこの時点ではフランスの圧力もあり反プロイセン的な南ドイツ諸国は参加しなかった(''→普墺戦争'')。
つづいて、北ドイツ連邦と南ドイツ諸国の統一を目指して、南ドイツ諸国のプロイセン型軍制改革を支援したり、関税同盟に議会を設置するなどしてドイツ統一機運を盛り上げようとしたが、南ドイツ諸国の反普感情を変えることはできなかった(''→南ドイツとの統一を目指して'')。
そのためフランスとの開戦によって南ドイツ諸国のドイツ・ナショナリズムを高めることを目指すようになった。1870年、スペイン王位継承問題を巧みに利用し、フランスが理不尽な要求を突き付けて一方的にプロイセンに宣戦布告してきたという状況を作り上げることで、全ドイツ諸国の反仏感情を爆発させ、プロイセン軍のもとに一致団結させ、また他国の中立も確保して普仏戦争に持ち込んだ(''→スペイン王位継承問題'')。セダンの戦いではナポレオン3世を捕虜にした。これによって第二帝政から第三共和政に移行したフランスだったが、ビスマルクが要求したアルザス・ロレーヌ地方割譲を拒否したため、戦争は続行された。パリ包囲戦中の1871年1月にドイツ軍の大本営がおかれていたヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉にあたり、ドイツ統一国家ドイツ帝国を樹立する合意を取り付け、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に即位させた。戦争の方も2月にはパリの困窮に耐えきれなくなったフランス政府がビスマルクの要求に応じたことで終結した(''→普仏戦争、→ドイツ統一'')。
プロイセン首相に加えてドイツ帝国首相となったビスマルクは、国民自由党など自由主義勢力と協力して様々なドイツ近代化改革を行った(''→自由主義・近代化改革'')。その一環でカトリックを弾圧する文化闘争を行い、ローマ教皇ピウス9世中央党と対立を深めた。しかし社会主義勢力の台頭や国民自由党内でら自由主義左派が反ビスマルク的姿勢をとるようになったことで中央党との関係改善を志向するようになり、文化闘争を終了させた(''→文化闘争'')。
ついで社会主義者鎮圧法制定や保護貿易への転換などで国民自由党に揺さぶりをかけ、自由主義左派が国民自由党から離党してを結成するよう追い込み、、帝国党、国民自由党の三党に「カルテル」と呼ばれる選挙操作協定を結ばせ、これを自らの与党勢力とした。さらにドイツ社会主義労働者党や自由思想家党に「帝国の敵」というレッテルを貼って攻撃した。とりわけ社会主義労働者党には社会主義者鎮圧法によって厳しい弾圧を加えた(''→保守主義へ転換、→社会主義者鎮圧法'')。労働者が社会主義労働者党に流れるのを防止すべく、1883年には疾病保険法、1884年には労災保険法、1888年に障害・老齢保険法を成立させ、世界初の全国民強制加入の社会保険制度を創出した(''→社会政策'')。
ドイツ統一後の外交は、対独復讐に燃えるフランスを孤立させることに腐心した。はじめ君主国の連帯で露墺とともに三帝同盟を結んでいたが、露土戦争に勝利したロシアがバルカン半島に支配権を確立すると英墺が強く反発し、列強間の大戦の気配が漂った。三帝同盟崩壊を恐れるビスマルクは「公正な仲介人」としてベルリン会議を主催してロシアを妥協させて戦争を回避したが、今度はロシアの不満が高まり、三帝同盟は事実上崩壊した(''→三帝協定、→露土戦争をめぐって'')。
ビスマルクは新たなフランス封じ込め体制の構築を狙い、1882年にはオーストリアやイタリアと三国同盟を結び、1887年にはイギリスとイタリアの間に地中海協定を締結させ、ついでオーストリアもこれに参加させた。他方ロシアとの関係もできる限り維持すべく、1887年に独露再保障条約を締結した(''→ビスマルク体制'')。
一方アフリカアジアで過熱するヨーロッパ諸国の植民地獲得競争では、英仏の植民地獲得を支援し、両国が植民地の利権をめぐって対立するよう離間を策動し続けた。1884年コンゴの領有権をめぐってヨーロッパ諸国の対立が深まるとベルリン・コンゴ会議を主催し、植民地獲得の原則を定めた。ドイツ自身の植民地獲得には慎重だったが、1884年から1885年にかけてはアフリカや太平洋上のドイツ人入植地をドイツ領に組み込んでいる(''→植民地政策'')。
こうしたビスマルクの一連の巧みな外交のおかげで普仏戦争後の19世紀後半のヨーロッパではヨーロッパ諸国間の戦争は発生しなかった。この第一次世界大戦までの小康状態は「ビスマルク体制」と呼ばれる。
しかしヴィルヘルム2世がドイツ皇帝・プロイセン王に即位すると社会主義者鎮圧法や労働者保護立法をめぐって新皇帝と意見がかみ合わず、1890年3月に首相を辞することとなった(''→失脚'')。退任後、ヴィルヘルム2世と対立を深めていたが、最終的には屈服した(''→首相退任後'')。1898年7月30日に死去した(''→死去'')。
スピノザヘーゲルランケマキャベリゲーテなどから影響を受け、ドイツ統一の精神や統一後の自制の外交などの精神を培ったという(''→影響を受けた人物'')。反ユダヤ主義政治家に肩入れすることもあったが、基本的には反ユダヤ主義者ではなく、私的人事にはユダヤ人学識者を重用していた(''→ユダヤ人について'')。
保守派や伝統的史観からの評価は高いが、彼と敵対した思想である社会主義や自由主義の立場からは強権的で排他的な政権運営が批判され、アドルフ・ヒトラーの萌芽に位置づけられることも多い。しかしこれに対しては外交のやり方、反ユダヤ主義政策の有無などビスマルクとヒトラーでは正反対だという反論も多い。『』論に立つとヒトラーに結び付けられやすかったが、現在のドイツの歴史学界は「ドイツの特殊な道」論に否定的であるためヒトラーと直接に結び付けられることは減った。政治手腕への評価としては「現実主義者」「ボナパルティスト」などとする物が多い(''→評価'')。
妻はユンカーの娘。彼女との間に長男ヘルベルト以下2男1女を儲けている。長男ヘルベルトは父のもとで帝国外務長官(外相)を務めた(''→家族'')。
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抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オットー・フォン・ビスマルク」の詳細全文を読む




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