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オットー・ブルンフェルス(Otto Brunfels、または Brunsfels、Braunfels、1488年 - 1534年11月23日 )は、ドイツの神学者、植物学者である。カール・フォン・リンネによって、「植物学の父」の1人と称された。 マインツに生まれた。マインツ大学で神学と哲学を学んだ。マインツのカルトジオ会の修道院に入り、その後シュトラスブルク近くのKönigshofenの修道院に入った。シュトラスブルクで、Nikolaus Gerbelと出会い、ハーブの効能について聞かされ、植物の研究に熱中するようになった。 ウルリヒ・フォン・フッテンらとともに、修道院の改革に乗り出し、彼はシュトラスブルクのカルメル会の学校長として8年間務めた。1550年に皇帝の命令で、ルーヴェン大学が重要な異端者のリストを作成し公開したが、その最初にブルンフェルスがあげられた。 デジデリウス・エラスムスに反対し、ウルリヒ・フォン・フッテンを擁護し、ヤン・フスの遺産からの原稿を公開した。1527年のブルンフェルスの''Catalogi virorum illustrium''は、福音派の教会の歴史の最初の本であると考えられている。 ウルリヒ・フォン・フッテンが死んだ後、ブルンフェルスの宗教的立場は、マルティン・ルターとフルドリッヒ・ツヴィングリと論争に巻き込まれた。スイスに移り、バーゼル大学で医学を勉強し始め、1532年に没することになるベルンで市医師となった。 神学に関する著作のほかに、ブルンフェルスは、教育学、アラビア語、薬学、昆虫学、植物学の論文も発表した。植物学の分野では、『本草写生図譜』('' Herbarium vivae icones'' , 1530年・1536年、『植物写生図譜』とも)で知られ、他に、''Contrafayt Kräuterbuch'' (1532-1537)を刊行した。 ナス科の植物属''Brunfelsia''はブルンフェルスにちなんで命名された。 == 『本草写生図譜』 == 『本草写生図譜』は、ブルンフェルスが収集したドイツの植物にドイツ名を添えて、ディオスコリデスなど昔の文献から引用した説明文に、木版画の図版を配した。図版は、アルブレヒト・デューラーの弟子だったハンス・ヴァイディッツが描いたが、その絵は大胆かつ精緻で、従来の型通りの雑な絵とは唖然とするほど違っていた。博物学において、図版を精密にコピーできる木版画の可能性が、陽の目を見た一冊だった。〔ロバート・ハクスリー 著、植松靖夫 訳 『西洋博物学者列伝 アリストテレスからダーウィンまで』 悠書館、2009年〕『本草写生図譜』で成し遂げられた図版の革命は、レオンハルト・フックスらの植物書に引き継がれた。 出版業者クリスチャン・エゲノルフは、『本草写生図譜』から多くの図版を流用し、本草書『ハーブ、木、低木、野菜や穀物』(''Herbarum, arborum, fruticum, frumentorum ac leguminem'' , 1533)を出版した。『本草写生図譜』の出版者ヨハン・ショットは、エンゲルノフを著作権の侵害で訴えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オットー・ブルンフェルス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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