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オットー・ホフマン(Otto Hofmann、1896年3月16日‐1982年12月31日)は、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の将軍。親衛隊の12ある本部の1つ親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)の本部長だった人物。ヴァンゼー会議の出席者としても知られる。最終階級は親衛隊大将(SS-Gruppenführer)および武装親衛隊大将(General der Waffen-SS)および警察大将(General der Polizei)。 == 略歴 == オーストリア・ハンガリー帝国のインスブルック出身。第一次世界大戦中の1914年8月にバイエルン王国陸軍の砲兵隊に入隊し、西部戦線・東部戦線両方に従軍した。1917年3月には中尉に昇進するとともにパイロットに転身した。1917年6月にルーマニアで負傷した。一時ロシア軍の捕虜となったが、脱走に成功している。第一次世界大戦中に一級鉄十字章及び二級鉄十字章を受章した。 第一次世界大戦敗戦後の1919年に義勇軍(フライコール)に参加。戦後はワイン商をして生計を立てた。1929年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党。1931年12月17日に親衛隊(SS)に入隊。1932年から1934年にかけて親衛隊の行政区画を転々とした(第9親衛隊地区(SS-Abschnitt IX)、親衛隊集団「南方」(SS-gruppe "Süd")〔親衛隊集団(SS-gruppe)は親衛隊上級地区(SS-Oberabschnitt)の前身である〕、親衛隊集団「北西」(SS-gruppe "Nordwest"))。1934年から1935年にかけては第21SS連隊や第28SS連隊の司令官となり、1935年5月から1937年1月にかけて第15親衛隊地区(SS-Abschnitt XV)の司令官となる。 1937年1月から親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)に勤務。親衛隊上級地区「西方」(SS-Oberabschnitt "West")に人種専門家の将校として勤務した。1939年2月にRuSHAに戻り、人種審査部門の部長となる。さらに1939年8月から系図部門の部長となる。1940年7月、親衛隊少将の時にギュンター・パンケに代わってRuSHAの本部長に就任。1943年4月20日まで在職した。この間の1942年1月にはラインハルト・ハイドリヒの主宰したヴァンゼー会議に出席している。 退任後の1943年4月から敗戦までにかけて親衛隊上級地区「南西」(SS-Oberabschnitt "Südwest")司令官や「南西」親衛隊及び警察高級指導者(Höhere SS und Polizeiführer "Südwest")に就任した。1943年6月に親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)に昇進。 戦後、ニュルンベルク継続裁判の1つ「RuSHA裁判」にかけられ、懲役25年の刑を受けた。しかし1954年には釈放された。1982年にバート・メルゲントハイムで死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オットー・ホフマン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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