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== 生涯 == シュッデコップフは、1912年、ベルリンのシャルロッテンブルク地区に生まれ、ポツダムのギムナジウムに通った後、1931年10月からフンボルト大学ベルリンにて、政治学、地理学、心理学、哲学、歴史学、ドイツ文学を学び始めた。同年、エルンスト・ニーキッシュを通じて右翼知識人のフリードリヒ・ヒールシャーの知己を得た。ヒールシャーは自らサークルを主催し、知識のみならず宗教の面でもメンバーたちの主導者となっていた。シュッデコップフはこの集団に興味を抱いたものの、しばらくはこれに加入する決心が付かず、全面的にこれに協力するようになったのは1934年以降である。同年、ベルリン大学国防学・国防地理学研究所での研究生活に入り、1938年、イギリスの海軍政策に関する研究により博士号を授与された〔Zum Werdegang Schüddekopfs vgl. 〕。 1945年、第二次世界大戦の終結とナチス政権の崩壊を迎えてもなお、ヒールシャーと彼のサークルは一貫したナチス政権に対するレジスタンス集団であった。ヒールシャー・サークルは迫害される人々の逃亡を個別に手助けするのみならず、積極的な抵抗活動を少なくとも計画した。実際に、ヒールシャーは共産主義者のアルフレッド・カントロヴィッチ(Alfred Kantorowicz)を一時的に自宅に匿っている〔Dazu Ina Schmidt, ''Der Herr des Feuers'', S. 258.〕。サークルの記述によれば、国家保安本部でのシュッデコップフのポストのみならず、ヴォルフラム・ジーヴァスの研究機関「アーネンエルベ」の事務長のポストもまた、ナチス党中央のポストと権力をサークルのメンバーによって占有し、体制崩壊へ導く計画の一部であり、ヒールシャーは1944年の7月20日事件の計画を知らされていたという。今日、ヒールシャー・サークルの立場については評価は定まっていない。サークルの抵抗活動は確かに、新しい研究(有名な歴史家マイケル・H・カーター及び、2004年に有意義な学位請求論文を提出したドイツの社会学者イナ・シュミット)によって確認されている〔Michael Kater, ''Das „Ahnenerbe“ der SS 1935–1945: Ein Beitrag zur Kulturpolitik des dritten Reiches'', Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 1974, S. 322f. (dort S. 322: „einen Widerstand des Kreises Hielscher hat es wirklich gegeben, selbst wenn darüber heute kaum etwas verlautbart ist“); Schmidt, ''Der Herr des Feuers'', Köln 2004. 〕。しかしながら、親衛隊将校の高位にあったシュッデコップフや、特にナチスのホロコーストに関与したジーヴァスの場合、どこで強固な抵抗活動が始まったか、またどこで抵抗が終わってナチスとの共犯が始まったかを確かめるのは難しい。博士号取得から間もなく、シュッデコップフはドイツ空軍の軍事学部門にて研究員となり、第二次世界大戦開戦後、1940年2月に召集されて前線に赴くが、1941年12月以降は国防軍最高司令部の軍事学部門に勤務。ヒールシャー・サークルの人脈を通じて、1942年、親衛隊の国家保安本部でのポストを獲得し、第Ⅳ局D部(「西方」部局)にて対イギリス政策を担当した。シュッデコップフは対英諜報活動を管轄し、第Ⅳ局局長ヴァルター・シェレンブルクとは深い関わりをもった。また、1943年、親衛隊中尉に任じられた〔Vgl. Schmidt, ''Der Herr des Feuers'', S. 256f. (Anm. 657 mit Literatur und Quellen). 〕 戦争終結直前の1945年4月初め、シュッデコップフは妻と共にブラウンシュヴァイクへ移り、連合国軍の進駐後、アメリカ軍司令部へ出頭した。自分が国家保安本部に勤務していることを報告して、ヒールシャー・サークルのメンバーの名前と住所を挙げ、自分がナチス政権へのレジスタンスに所属していることを証言した。シュッデコップフはロンドン南西部のキャンプ020(ラッチメア・ハウス収容所)に抑留され、イギリス保安局(MI5)に対して、アイルランドへの侵攻準備のための特殊部隊であるイギリス自由軍団や諜報員lキケロ(本名エリエサ・バズナ)について詳細な証言を行った〔Eintrag Schüddekopf im britischen National Archive (englisch).〕。シュッデコップフの抑留中、ヒールシャーやその他、かつてのサークル・メンバーは報告や宣誓表明をもって自分たちの抵抗活動の証拠を示そうとしていた。そのため、すでに始まっていたシュッデコップフへの捜査手続は1948年10月には中止され、1949年3月、非ナチ化の対象から除外された〔Vgl.Schmidt, ''Der Herr des Feuers'', S. 285. 〕。ソ連占領地域では、彼の著作である『イギリスの海軍政策(''Die britische Marinepolitik'')』(1938年)、『イギリスの空軍用兵思想(''Britische Gedanken über den Einsatz des Luftheeres'')』(1939年)、『ドイツ帝国の拠点政策1890-1914(''Die Stützpunktpolitik des Deutschen Reiches 1890–1914 '')』(1941年)が除外選定図書目録に登録された〔Vgl. die Listen von 1946 und 1948 bei polunbi.de〕。 1953年、シュッデコップフは歴史学の講師となり、歴史学・地理学教育国際年鑑(''Internationalen Jahrbuchs für Geschichts- und Geographieunterricht'')の共同編集者を務める。彼の著書は広く受容されたが、ヴァイマル共和国の民族ボルシェヴィズムに関する彼の研究(『右翼の中の左翼''Linke Leute von Rechts''』1960年)は特に影響力を有した〔Vgl. dazu die Rezensionen Klaus Werner Epsteins (in: ''Historische Zeitschrift'' 193, 1961, S. 676–681) und G. Barracloughs (in: ''International Affairs'' 37, Nr. 4, 1961, S. 517).〕。また、シュッデコップフはコミンテルンの知識人にして幹部であったカール・ラデックの研究を行った〔Vgl. etwa Karin Wieland, ''„Totalitarismus“ als Rache'', in: Alfons Söllner, Ralf Walkenhaus, Karin Wieland (Hrsg.〕。ヴァイマル共和国軍での彼の史料収集は際立って肯定的に受け止められ、今日に至るまで数多く利用されている〔Vgl. die Rezension Gordon A. Craigs, in: ''The American Historical Review'' 62, Nr. 1, 1956, S. 135f.〕。さらに、ヒールシャー・サークルの抵抗活動の記述が見られる資料の蒐集に何度か取り掛かろうとしたが、この計画はついに実現することはなかった〔Vgl. dazu Schmidt, ''Der Herr des Feuers'', S. 288–292.〕。1973年、ドイツ労働組合連盟文化賞(Kulturpreis des Deutschen Gewerkschaftsbundes)を受賞、1984年に死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オットー=エルンスト・シュッデコップフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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