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オテル・リッツ ( Hôtel Ritz )は、パリの中心部、1区にある壮麗な宮殿ホテルである。2015年現在、大改装の為、長期休業中。以前のスタッフは殆ど、解雇されている。 ヴァンドーム広場の15番地に位置し、八角形の広場を見渡すことができる。世界で最も豪華で評判の良いホテルの1つに数えられており、ザ・リーディングホテルズ・オブ・ザ・ワールドに加盟している。現在159室を有している。 オテル・リッツは1898年、スイスのホテル経営者セザール・リッツと料理人のオーギュスト・エスコフィエの協力のもと設立された。新しいホテルは、18世紀に建てられたタウンハウスのファサードの背後に建設された。 伝えられるところによれば、居室に隣接した浴室や電話、電気を各部屋に設置提供したのは、オテル・リッツがヨーロッパで初めてだったという。その贅沢さがまたたくまに評判になり、王侯、政治家、作家、映画スター、歌手等を顧客に迎えることになった。スイートの幾室かに、ココ・シャネルやアーネスト・ヘミングウェイら著名な宿泊客を記念して、名前が付けられている。彼らは何年にもわたってホテルに滞在していた。ホテルのバーの1つ「バー・ヘミングウェイ」はヘミングウェイに捧げられ、「レスパドン」は世界的に有名なレストランであり、隣接する「リッツ・エスコフィエ料理学校」で学ぶ野心的なシェフを世界中から引きつけている。ホテルの最も豪華なスイート「スイート・アンペリアル」は、それ自体がフランス政府により歴史的建造物の指定を受けた。 第二次世界大戦中、ホテルは占領ドイツ軍に接収され、ドイツ空軍のパリ支部として使用された。リッツの息子シャルル・リッツが1976年に死去すると、リッツ一族の最後の所有者は1979年、エジプトの実業家モハメド・アルファイドにホテルを売却した。 1997年8月には、アルファイドの息子ドディ・アルファイドとダイアナ元英国皇太子妃が、宿命的な交通事故の前にインペリアル・スイートで食事をとっている。 上流階級とその贅の象徴としてのステイタスから、オテル・リッツは小説など多くの著名な創作作品の中で重要な役割を果たした。F・スコット・フィッツジェラルドの『夜はやさし』や、ヘミングウェイの『日はまた昇る』、ノエル・カワードの戯曲『 Semi-Monde 』、あるいはビリー・ワイルダー監督の1957年のコメディ『昼下りの情事』、ウィリアム・ワイラー監督の1966年の映画『おしゃれ泥棒』などが挙げられる。 ==背景と歴史== ホテルの地所は、1705年にアントワーヌ・ビトー・ド・ヴァイユにより購入され、個人の邸宅が建設された。 この邸宅は、幾人かの貴族の手を経て、のちにグラモン公爵邸となった。 ファサードは王室建築家のジュール・アルドゥアン=マンサールにより設計された。1854年、グラモン館をペリエール兄弟が入手した。彼らはグラモン館を、自分たちの金融会社フィナンシャル・モビリエの主要オフィスとした。のちにはラザン館となっている。 1888年、スイスのホテル経営者セザール・リッツとフランス人シェフオーギュスト・エスコフィエは、バーデン=バーデンにレストランを開いた。次いで二人はリチャード・ドイリー・カートに請われて、1889年から1897年まで、サヴォイ・ホテルの初代支配人とシェフを務めた〔Ashburner, F. "Escoffier, Georges Auguste (1846–1935)" , ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, 2004; online edition, May 2006, accessed 17 September 2009〕。 リッツの指揮下、サヴォイはまもなく成功を収め、エドワード皇太子を筆頭に、有名で裕福な顧客を獲得した。1897年、リッツとエスコフィエは揃ってサヴォイを解雇された。リッツが時価3400ポンド以上の価値があるワインや蒸留酒の紛失に関連したためであった〔Brigid, Allen. "Ritz, César Jean (1850–1918)", ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, September 2004; online edition, May 2006, accessed 18 September 2009〕。 解雇に先立ち、サヴォイの顧客らは彼らに、パリにホテルを構えるよう主張したという。 アレクサンドル・マルニエ=ラポストルの援助を受け、リッツは宮殿を購入、かつてのラザン館の建物を210室のホテルに改築した〔。リッツは、ホテルの目的は裕福な顧客に「王子が自分の屋敷に望みうる洗練の全て」を供することであると述べている。 リッツは1705年当時の構造を最新化するために、建築家のシャルル・メヴェ Charles Mewès を招聘した。 ホテルは1898年6月1日に「輝かしいレセプション」のドアを開けた。 準共同経営者であるエスコフィエの料理の才能と同時に、リッツはホテルを、贅沢や奉仕、美味しい料理と同義に育て、「ritzy」という言葉さえ生まれた。パリの名士たちはすぐ、それをファッショナブルだととらえ、何年もの間、多くの有名人たちがリッツを訪れることになった。アーネスト・ヘミングウェイはバーにその名を残し、他にもF・スコット・フィッツジェラルド、マルセル・プルースト、エドワード2世、イラン皇帝、ルドルフ・ヴァレンティノ、チャールズ・チャップリン、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリヒ、オーソン・ウェルズ、モーリス・シュヴァリエ、ジャン=ポール・サルトル、 エルトン・ジョンなどが挙げられる。クチュリエのココ・シャネルは、リッツを30年以上も自宅代わりにしていた〔。ホテルのスイーツの多くには、彼ら著名な顧客の名前が付けられている。ヘミングウェイは「パリに居ながらリッツに滞在しないのは、その余裕がない時だけだ」という有名な言葉を残している。 1904年と1908年に、リッツの庭のカフェを、スイスの画家ピエール=ジョルジュ・ジャノワ Pierre-Georges Jeanniot が描いている。プルーストは『失われた時を求めて』執筆時の1909年ごろ、オテル・リッツに滞在している〔。 建物は1910年に増築され、1918年にセザール・リッツが死去すると、彼の息子シャルル・リッツが後を継いだ。 ルーマニア王妃マリアは1919年のパリ講和会議の際、大ルーマニア実現に向けて運動するため、上の娘2人エリザベス(ギリシア)、マリア(ユーゴスラヴィア)とともに、オテル・リッツに滞在した。 他にも多くの著名な王室関係者や政治家が、何年もの間リッツで寝食をとった。エドワード7世は、ホテルの狭い浴槽に嵌って、恋人と2人動けなくなったことがあると伝えられている〔。 オーギュスト・エスコフィエは1935年に死亡した。1940年夏のドイツによるフランス占領後は、ヘルマン・ゲーリング率いるドイツ空軍が第二次世界大戦中、オテル・リッツに本部を置いた。 1979年、リッツ一族はホテルを、エジプトの実業家モハメド・アルファイドに20,000,000ポンドで売却した〔。 アルファイドはホテルを営業しながら、数年かけて全て改装を済ませた。 このときに2棟のタウンハウスを増築し、パリの主要メゾンを擁するアーケードと直結した〔。 1980年から1987年にかけてホテル改築の指揮をとったのは、建築家のベルナール・ゴーシュレルであった。 1988年には、オーギュスト・エスコフィエを記念して、料理学校エコール・リッツ・エスコフィエが設立された〔。 1997年8月31日には、ダイアナ元イギリス皇太子妃と、アルファイドの息子ドディ・アルファイド、専属運転手のアンリ・ポールがオテル・リッツのインペリアル・スイートで食事をとった後、アルマ橋の地下道で運命的な事故に遭っている。 21世紀においてもおそらく、オテル・リッツは世界的な評判を保ち続け、またパリで最も優れ最も高価なホテルであり続けるであろう〔。 リッツは、ヨーロッパ最高のホテル、世界で最も有名なホテルの1つだと言われている〔。「ザ・リーディングホテルズ・オブ・ザ・ワールド」グループにも加盟している。パリに7つある宮殿ホテルのうち、最も古いのもオテル・リッツである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オテル・リッツ・パリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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