翻訳と辞書
Words near each other
・ オデッタ
・ オデッテ・ジュフリーダ
・ オデット
・ オデット・アナブル
・ オデット・バンシロン
・ オデット・ユーストマン
・ オデッド・シュラム
・ オデッド・フェール
・ オデナトゥス
・ オデヤ・ラッシュ
オデヤ朝
・ オデュッセイア
・ オデュッセイアー
・ オデュッセウス
・ オデュッセウス (小惑星)
・ オデュッセウスガンダム
・ オデュベル・ヘレーラ
・ オデル
・ オデルツォ
・ オデロ・ヘンリーク


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

オデヤ朝 : ウィキペディア日本語版
オデヤ朝[おでやちょう]

オデヤ朝(オデヤちょう、カンナダ語:ಒಡೆಯರ್, 英語:Wadiyar dynasty)は、南インドカルナータカ地方に存在したマイソール王国ヒンドゥー王朝1399年 - 1947年)。マイソール王国の歴史において、その大部分の期間を統治した王朝でもある。
==歴史==

1399年ヤドゥ・ラーヤマイソールの支配権を奪った〔Mysore 2 〕。マイソール王国を建国した。以後、彼とその子孫の王朝はオデヤ朝と呼ばれた。
この王朝は当時南インドを支配していたヴィジャヤナガル王国に従属し、16世紀前半の王チャーマ・ラージャ3世クリシュナ・デーヴァ・ラーヤに娘を嫁がせ、1520年ライチュールの戦いにも従軍した〔パイス、p248〕。
その後、その息子ティンマ・ラージャ2世の治世、1565年にヴィジャヤナガガル王国がターリコータの戦いで敗北すると、弟のチャーマ・ラージャ4世は半独立の立場を打ち出した〔Mysore 2 〕。
1610年ラージャ・オデヤ1世シュリーランガパトナをヴィジャヤナガル王国から奪い、独立を宣言した。また、これにより首都がマイソールからシュリーランガパトナへと遷都された〔Mysore 2 〕。
その後、17世紀後半から新興カーストマラーターが台頭し、シヴァージーによってマラータ-王国が建国されると、マイソール王国とマラーター王国は交戦状態となった。1685年以降、マラーターの侵攻が本格化すると、時のオデヤ朝の王チッカ・デーヴァ・ラージャムガル帝国と結び、1687年にはバンガロールを封土として与えられた〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p171〕。
18世紀初頭、ムガル帝国が撤退したのち、南インド一帯は争乱に巻き込まれた。こうした中で、ハイダル・アリーという王国のムスリム軍人が台頭した。1761年に彼が王国の政権を握るとマイソール王らはその傀儡となった〔KHUDADAD The Family of Tipu Sultan GENEALOGY 〕。
ハイダル・アリーの死後、息子ティプー・スルターンも王国の政権を握り続け、1786年にはパードシャーを称し、1796年チャーマ・ラージャ9世の死を機にオデヤ朝を廃絶した。ハイダル・アリー父子の統治期間、彼らの傀儡であったナンジャ・ラージャチャーマ・ラージャ8世、チャーマ・ラージャ9世の三王は、彼らによって殺害されたともいう〔Mysore 3 〕。
だが、1799年5月4日、ティプー・スルターンが第四次マイソール戦争で戦死すると、イギリスマイソール・スルターン朝を廃絶し、チャーマ・ラージャ9世の息子クリシュナ・ラージャ3世を即位させ、オデヤ朝を復活させた〔Mysore 4 〕。その後、7月に軍事保護条約が締結され、王国は藩王国となった〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p44〕。
19世紀後半と20世紀後半において統治したチャーマ・ラージャ10世クリシュナ・ラージャ4世の父子は、開明的で近代的思考を持った人物であり、藩王国の近代化に大きく貢献した〔Mysore 4 〕。
1947年8月15日チャーマ・ラージャ11世の治世、インド・パキスタン分離独立に際して藩王国はインドに併合され、オデヤ朝の歴史も終わりを告げた〔Mysore 5 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オデヤ朝」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.