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オトマール・シェック : ミニ英和和英辞書
オトマール・シェック[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

オトマール・シェック : ウィキペディア日本語版
オトマール・シェック[ちょうおん]

オトマール・シェックOthmar Schoeck, 1886年9月1日 - 1957年3月8日)は20世紀スイス作曲家。300曲以上にのぼる歌曲を作曲し、ピアノ伴奏つき歌曲や管弦楽伴奏つき歌曲、様々な合唱曲を遺している。その他の作品に《ヴァイオリン協奏曲「幻想曲風に」》作品21や《ホルンと弦楽合奏のための協奏曲》作品65, ハインリヒ・フォン・クライスト原作の歌劇《ペンテジレーア》作品39などがある。
1980年代半ばから、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ白井光子の地道な努力によりシェックの再評価が始まった。
== 経歴 ==
シュヴィーツ州ブルンネンに、風景画家のアルフレート・シェック (Alfred Schoeck) を父として出生。父親の跡継ぎを目指して短期間チューリッヒの美術学校に籍を置いたが、結局中退してチューリッヒ音楽院に転学。音楽院を卒業後、シュトゥットガルトマックス・レーガーに出会い、1907年から1908年までレーガーの下でライプツィヒ音楽院に学んだ〔http://www.karadar.com/Dictionary/schoeck.html〕。
スイスに戻ってからは積極的な音楽活動に着手。チューリヒのいくつかの合唱団やザンクト・ガレンにおけるオーケストラの演奏会を指揮したが、徐々に創作活動に鞍替えしていった。第一次世界大戦中はチューリヒで過ごし、ピアニストのマリー・ド・サンジェール (Mary de Senger) と恋愛関係にあった。
パリフランス六人組の音楽を知ってから、旧来の伝統的な調体系を捨てた。アルバン・ベルク音列技法に関心を寄せたこともある。結局は1930年代モダニズムから離れて調性音楽に回帰したが、それでも19世紀末から20世紀初頭に流行った「調性の拡張」に従っており、自由奔放な和声進行や個性的な転調を追究している。調性への回帰と同時期にナチス・ドイツに祭り上げられ、優遇されたため、そのことが戦後シェックのタブー視につながった。
創作活動のかたわらピアニストとしても活動し、チューリヒ歌劇場で活躍した歌手、とりわけエルンスト・ヘフリガーを伴奏して自作歌曲の録音を遺した。指揮者としては、同僚のフォルクマール・アンドレーエフリッツ・ブルンと親しかった。そのほかの友人に、文豪ヘルマン・ヘッセや画家フランツ・ヴィーゲレがおり、ヘッセとブルンはシェックの旅仲間でもあった。
1945年にスイス音楽家協会作曲家大賞に選ばれた。1957年にチューリッヒで没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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