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オハイオ軍(Army of the Ohio)は南北戦争中の北軍の軍(野戦軍)で、同じ名前の軍が二度編成されている。最初のオハイオ軍は1861年に編成され翌年カンバーランド軍に名称変更された。二度目は1863年に編成された。 ==歴史== 一般命令97号に基づき、ドン・カルロス・ビューエル少将が、オハイオ軍管区の司令官に任命された。軍管区の全ての部隊は、ビューエルの下にオハイオ軍に組織された。1862年1月19日、ミル・スプリングスの戦いで最初の実戦を経験したが、これに参戦したのはジョージ・ヘンリー・トーマス准将の第1師団のみであった。軍全体としては、ユリシーズ・グラントのテネシー軍の支援のためにシャイローの戦い(4月6日-4月7日)への参戦した。 1862年8月ビュエルはオハイオ軍を去り、ホレイショ・ライト准将が軍司令官となった。しかし、ライトの階級が低いことから北軍総司令官のヘンリー・ハレックは第1師団長のトーマスに、代わって軍軍司令官になるよう命じた。しかしトーマスは大きな戦闘が近いことを予想しており、その直前に司令官が交代することは賢明ではないと感じていた。このため、ビューエルが継続して軍の指揮をとることとなり、トーマスは副司令となった。トーマスが予想していた戦闘は1862年10月に発生した。オハイオ軍はケンタッキーへ侵攻してきたブラクストン・ブラッグ少将の南軍をペリービルの戦いで迎え撃った。このときビューエルは増援部隊を送るのが遅れ、さらに南軍撤退後の追撃を行わなかったことを避難され、軍司令官を解任された。後任にはウィリアム・ローズクランズ少将が任命された。ローズクランズはカンバーランド軍管区の司令官も兼ねたため、オハイオ軍はカンバーランド軍と名称が変更された。 1863年3月25日、アンブローズ・バーンサイドがオハイオ軍管区の司令官を引き受けた。バーンサイドは軍管区内の部隊を統合し、第23軍団を編成した。第23軍団はオハイオ軍とも呼ばれた、バーンサイドが司令官となった。バーンサイドは以前にポトマック軍の司令官を努めており、南北戦争中に複数の「軍」の司令官となった数人の将官の一人である。この新しいオハイオ軍は、南軍騎兵隊によるモーガンの襲撃(1863年6月11日-7月26日)に反撃したが、軍としてまとまった行動を行ったことは、この作戦中は稀であった。続いて、バーンサイドはノックスビル (テネシー州)に移動し、そこで第9軍団が加わったため、オハイオ軍は2個軍団編成となり、さらに騎兵師団も追加された。バーンサイドはノックスビル方面作戦中のサンダース砦の戦い(11月29日)で南軍を撃破した。戦闘の後、バーンサイドは病気のために軍司令官を退き、12月9日にジョン・フォスター(John G. Foster)少将が軍司令官および軍管区司令官を引き継いだ。 フォスターが軍司令官を務めた期間は短かった。1864年2月9日、ジョン・マカリスター・スコフィールドがオハイオ軍管区の司令官を引き受けた。4月にはオハイオ軍の司令官と第23軍団長を兼ねた。この期間、オハイオ軍は第23軍団のみで構成されており、両者は同義である。スコフィールドはアトランタ方面作戦で軍を率い、7月22日のアトランタの戦い後に南軍のジョン・ベル・フッド中将をテネシーに押し返した。第二次フランクリンの戦いでは、ジョージ・ヘンリー・トーマス少将のカンバーランド軍と合流する前に、スコフィールドはフッドに手痛い敗北を喫した。1865年2月9日、スコフィールドはノースカロライナ軍管区の司令官に異動となり、ジェイコブ・ドルソン・コックス少将が一時的に司令官を務めた。 第23軍団はノースカロライナへ移動するように命令され、コックスの師団のみがウィルミントンの戦いに参戦した。第23軍団の残りの部隊は、3月までニューバーンに到着しなかった。第23軍団全部隊が到着した後、スコフィールドは第23軍団とアルフレッド・テリー少将の第10軍団でオハイオ軍を組織した。オハイオ軍はウィリアム・シャーマンのカロライナ方面作戦(1865年1月-4月)において、北軍の中央翼を務めた。戦争が終了すると、軍は解散した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オハイオ軍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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