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オハイオ領土(オハイオりょうど、英:Ohio CountryまたはOhio Territory)は、18世紀北アメリカで、アパラチア山脈の西、オハイオ川の北およびエリー湖の南の地域の呼称である。アメリカ合衆国にとっては最初の辺境の一つであり、おおまかに言って、現在のオハイオ州、インディアナ州の東部、ペンシルベニア州の西部およびウエストバージニア州の北部に跨っていた。この地域への開拓者の入植がフレンチ・インディアン戦争の主要な原因となり、アメリカ独立戦争に繋がることになった、と歴史家は指摘する。 == 歴史 == === 植民地時代 === 17世紀、オハイオ領土の北の領域はアルゴンキン語族のショーニー族によって支配されていた。1660年頃、ビーバー戦争として知られる紛争の間、イロコイ族がオハイオ領土を支配してショーニー族を追い出し、エリー族は征服して吸収した。その後、オハイオ郡には何十年もほとんど定住者のいない状況が続き、主にイロコイ族の猟場として使われていた。 1720年代、多くのインディアン種族がオハイオ領土内に移住してくるようになった。1724年までに、デラウェア族がペンシルベニアの西部、アレゲニー川沿いにキタニングの集落を造った。デラウェア族はペンシルベニアの東部でヨーロッパ人の開拓地が拡がるにつれて、追い出されるように移住してきていた。デラウェア族と共に東部に定着していたショーニー族も移住してきた。それに続く数十年の間に散らばっていたショーニー族の他の集団もオハイオ領土に戻り始めた。セネカ族を初めとする他のイロコイ族も、オンタリオ湖の南でフランスとイギリスが対立する中で追い出され、オハイオ領土に移住してきた。 ヨーロッパ人が域内に入ってくるにつれ、イギリスもフランスも共にオハイオ領土の領有権を主張するようになり、それぞれがインディアンと交易するために商人を送り込んだ。この地域はイロコイ族が過去に征服したことでやはり領有権を主張していた。ヨーロッパの2強国とイロコイ族、さらにオハイオ領土内に実際に定住しているインディアン種族が1750年代のフレンチ・インディアン戦争で重要な役割を演じた。オハイオ領土内のインディアンは当初中立を保とうとしたが、後にはフランス側に付くことになった。フランスから提供される物資や武器で武装したインディアンは、キタニング・パスを通ってアレゲニー川の東にあるイギリスの開拓地に残虐な襲撃を掛けた。1756年の夏にグランビル砦が破壊される事態を受けたイギリス植民地は、知事のジョン・ペンがジョン・アームストロング中佐に命じてアレゲニー川の西にあるショーニー族の集落を破壊させた。フレンチ・インディアン戦争は、フランスとその同盟インディアンの敗北で終わった。1758年にイギリス軍と植民地軍の遠征隊がフランス軍の砦であるデュケイン砦からフランス軍を追いだし、今日のピッツバーグの地にピット砦を構築していた。1763年のパリ条約でオハイオ郡の全域がイギリスの支配下に入ったが、アメリカ東海岸にあるイギリスの植民地の幾つかがオハイオ領土の領有権を主張するようになった。 イギリス国王ジョージ3世は1763年宣言を発し、東西はアパラチア山脈からミシシッピ川まで、南北はフロリダからニューファンドランドまでの広大な領域をインディアンの居留地とし、その中にオハイオ郡を位置付けた。既に入っている開拓者(ほとんどがフランス人)は立ち退くか、特別の滞在許可を得ることを命じられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オハイオ領土」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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