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西崎 義展(にしざき よしのぶ、正式には「西﨑義展」、1934年(昭和9年)12月18日 - 2010年(平成22年)11月7日)は、プロデューサー。本名:西崎 弘文(にしざき ひろふみ〔波乱万丈、覚醒剤逮捕も…宇宙戦艦ヤマトプロデューサー転落死の謎 - ZAKZAK、2010年11月8日。〕)。 アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーであり『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙空母ブルーノア』などを企画製作した。 == 略歴 == 東京府東京市小石川区原町(現・東京都文京区白山)に生まれる〔『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』p.64〕。父親は東大法学部卒で〔『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』p.64〕日本興業銀行勤務〔「最後はマグロ船『ヤマト』から転落死!『西崎プロデューサー』の破天荒な生涯」『週刊新潮』2010年11月18日号、pp.136-137〕、父方の祖父は薬学者で東京女子薬専(現・明治薬科大学)校長を務めた西崎弘太郎〔西崎弘太郎 コトバンク(講談社『日本人名大辞典』)〕、母方の祖父は海軍大将〔『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気(牧村康正、山田 哲久著 講談社刊)』P151によれば、母方の祖父が海軍大将だったという記述は『キネマ旬報』の記事内にのみ登場し、母の旧姓と同じ苗字の海軍大将も実在せず、事実か否か断定できないとの事。〕、父の妹は日舞の西崎流家元の初代西崎緑〔西崎緑(初代) コトバンク(講談社『日本人名大辞典』)〕〔西沢正史「天国と地獄をみた男・西崎義展」『キネマ旬報』1983年3月下旬号、pp.96-99〕。 1947年、父の命令で開成中学校を受験したが失敗し、家出して4日後に帰宅〔『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』p.67-68〕。私立武蔵高等学校に入学し、1953年卒業。文学座の舞台『欲望という名の電車』の杉村春子の演技に感動し、1955年に文学座の研究生となり、端役で舞台を踏んだものの、2年後に自動車事故で怪我をして俳優は断念した〔『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』p.73-74〕。また2度の東京大学受験に失敗して父親から一度は勘当される〔〔「宇宙戦艦ヤマト」とともに生きた 西崎義展さんの波乱万丈人生 スポーツニッポン 2010年11月8日〕。4年間の浪人生活を経て、1957年、日本大学芸術学部演劇学科に入学〔『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』p.74〕。1959年8月に大学を中退したとする資料もあれば〔『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』p.75〕、1957年に日本大学を卒業したと伝える資料もある〔『ヤマトよ永遠に』映画パンフレット、オフィス・アカデミー、1980年。西崎義展プロフィールより。〕。 1958年頃より食べることに困って、六本木のジャズ喫茶の司会をやり、ジャズ解説などで生計を立てるようになる。当時の愛称はザーキ〔〔「Producer Special Interview 『ヤマト』の10年は、またひとついい思い出と財産をもたらしてくれた…… 西崎義展」『ロマンアルバムエクセレント53 宇宙戦艦ヤマト PERFECT MANUAL 1』徳間書店、1983年、pp.205-209〕。その後は、マネージャーとして、ダン池田とアフロキューバン、東京マンボ、ミュージカル・アカデミーの全国巡業に帯同した〔『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』映画パンフレット、オフィス・アカデミー、1978年。西崎義展プロフィールより〕。 1962年、音楽制作プロデューサーとして企画制作の道に入る〔。 1963年10月、オフィス・アカデミーを設立〔小池正春「『宇宙戦艦ヤマト』製作者が獄中で聞いた判決」『創』2002年6月号、 pp.64-65〕。しかし金銭的には厳しく、創価学会系の民主音楽協会(民音)のイベントを中心に糊口を凌ぎ、創価学会の顧問弁護士だった山崎正友と水産品を扱うシーホースという会社に出資して共同経営した〔〔。ショー製作の本数は約200本〔。山崎によれば、民音事務局長の大久保直彦に重用されていたが、後に嫌われて遠ざけられたという 〔山崎正友「宇宙戦艦『ヤマト』と民音 」『池田大作 日本経済乗っ取りの野望 (四)』信教の自由を考える集い編、「自由の砦」編集局、1989年〕。 1968年に西ヨーロッパへ渡航し、フランス人プロモーターの進行助手となる。共産圏の舞踊団やバレエ団を招いて舞台制作をして、約1年半ヨーロッパ全土を巡業してまわり、最終的にはロードマネージャー兼マネージャーを務めた〔〔。 帰国後の1970年には手塚治虫の知人からの紹介で、手塚と個人契約を交わしてマネージャーを務めるようになり、手塚作品のテレビへのプロモートを行った〔〔〔「僕は『ヤマト』に命を取られても本望ですよ インタビュー 西崎義展」 『キネマ旬報』1994年8月下旬号、pp.241-243〕〔手塚治虫「あとがき」『手塚治虫漫画全集192 海のトリトン4』講談社、1980年、p.231〕。1971年2月頃より、手塚が社長の虫プロ商事に企画制作部長として就任。多忙な手塚に代わり事実上の社長代理として経営改革を図ったが、急進的な改革は専横状態となって人心を掌握できず、虫プロ商事は混乱状態に陥る〔「損害賠償請求事件 東京地裁昭49(ワ)3093号」『下級裁判所民事判例集』第32巻5-8号、最高裁判所事務総局編集、財団法人法曹界、1984年、pp.729(319)-733(323)〕〔「マンガ界の神話は不滅か」『朝日新聞』1980年3月11日号〕。 1972年、手塚治虫原作のテレビアニメ『海のトリトン』でアニメを初プロデュース。同年にオフィス・アカデミーの社長に就任し、同社を商標及びその二次使用会社とする〔〔。 続いて手塚治虫の『ワンサくん』の映像化権を取得。仕事のない虫プロダクションは自社での『ワンサくん』の制作を希望し、西崎は虫プロの役員に招聘される〔山本暎一『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、1989年、pp.329-331〕。 個人プロデューサーとして、1973年1月より瑞鷹エンタープライズのテレビアニメ『山ねずみロッキーチャック』を製作〔。同年4月より虫プロ制作で『ワンサくん』を放送した。放送終了後の11月に役員を務めた虫プロが倒産。 虫プロの再建運動を進めていた労働組合と交渉して、1974年6月に和解。第2スタジオの建材と西崎の虫プロへの債権を組合に譲渡するとともに200万円を組合へカンパするというのがその内容〔「1527日―虫プロ再建への歩み」『ぱふ』1979年8月号、p.50。『虫プロ斗争ニュース 特集号 第20号』昭和53年7月10日号の転載。〕。一方、この虫プロ倒産時に、退職金代わりとして何本かのアニメの権利を得たという山崎正友の証言がある〔。この頃、手塚治虫とはトラブルから絶縁状態になる。 1974年10月、前年より企画を進めていたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』をオフィス・アカデミーで製作し放送開始。 1977年に『宇宙戦艦ヤマト』を再編集した劇場版アニメ映画がヒット。翌1978年には新作映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は配給収入21億円の大ヒットとなりブームを巻き起こし、『宇宙戦艦ヤマト』をシリーズとして展開。財産を築いて、銀座で毎晩飲み歩き、ハーレーダビッドソンのオートバイは25台を所有。 高級マンションや大型クルーザーを購入して豪遊した〔〔小池正春「宇宙戦艦ヤマトの著作権は誰のものか」『財界展望』1999年5月号、pp.58-61〕。 1979年、徳間康快と角川春樹と組んで「大藪春彦スーパー・ジョイント」と称し、大藪春彦の『汚れた英雄』を徳間書店と共同製作してプロデュース。同じく大藪春彦の『傭兵たちの挽歌』は角川春樹事務所製作で西崎義展がプロデューサーを務めると発表され、実写劇映画の初プロデュースとなるはずだったがいずれも頓挫〔高橋英一、西沢正史、脇田巧彦、黒井和男「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』1979年6月上旬号、pp.170-171〕〔西崎義展氏「お別れの会」しめやかに執り行う 文化通信 2010年12月10日〕。 同時期には吉田喜重監督による実写映画『望郷の時』(『侍イン・メキシコ』)をプロデュースして、メキシコへのロケハンまで実施されたが、これも流れている〔〔川崎宏『狂おしい夢 不良性感度の日本映画 東映三角マークになぜ惚れた!?』青心社、2003年、p.176〕。 1979年に公開された実写劇映画『わが青春のイレブン』〔『わが青春のイレブン』 allcinema〕、実写ドキュメンタリーの『北壁に舞う』〔『北壁に舞う』作品情報 MovieWalker〕では音楽プロデューサーを担当してその活躍はアニメのみにとどまらず、1970年代末から1980年代前半にかけて、角川春樹や山本又一朗などとともに従来の映画会社に属さない新時代の独立プロデューサーとしてもてはやされた〔文化通信社編著『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、p.142〕〔斉藤守彦『宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由』朝日新書、2008年、p.10〕。角川とともに「日本映画界の革命児」とも言われて脚光を浴びた〔「さらばブームよ…負債48億 ヤマト沈没 制作の西崎氏らに破産宣告」『読売新聞』1997年9月18日付〕。 しかし出資していた山崎正友経営のシーホースが経営悪化に陥り、オフィス・アカデミーから約20億円が注ぎ込まれて振り出した手形の回収など、資金繰りに追われるようになり、1982年夏、オフィス・アカデミーと関連会社を整理し、手形の処理も行った〔。前述の『汚れた英雄』の映画化では、20台のオートバイと10時間以上撮影したヨーロッパロケフィルムで既に3億円を投じていたが、この影響で断念して、映画化権を角川春樹に返上した〔。 活動の拠点をオフィス・アカデミーから、1977年12月に設立していた赤坂のウエスト・ケープ・コーポレーションへと変更として再出発し〔〔「『戦艦ヤマト』で人気 アニメ制作会社破産」『中日新聞』1999年9月18日付〕、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズも1983年公開の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』でいったん終焉。『DESLAR'S WAR I 戦艦スターシャ』『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』へ続く「ヤマト復活3ヵ年計画」の第一弾『オーディーン 光子帆船スターライト』が1985年に劇場公開されるが〔アライ=ヒロユキ『宇宙戦艦ヤマトと70年代ニッポン』社会評論社、2010年、p.307〕、 配給収入の推定は2億円〔『アニメージュ』1986年2月号、p.24〕と大失敗となり、借金を抱える結果に終わった〔笠原和夫、すが秀実、荒井晴彦『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』太田出版、2002年、p.511〕。 初の実写映画プロデュースとなる本田美奈子主演のバイク映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』が1987年に公開。製作総指揮を務め、劇中にはヤマト号というクルーザーが登場した〔モリタタダシ「本田美奈子 最初で最後の劇場主演映画はヤマト号とともに轟沈!!」『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p.172〕。 経営破綻したレンタルビデオの童夢の事業を1987年から引き継いだが営業不振によって1990年代になって資金難に陥る。1991年にジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワークが倒産。さらに1997年にウエストケープ・コーポレーションとともに西崎個人も破産。この過程で資金調達のため『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを含む製作した作品の著作権を失う結果を迎える〔。1997年末と1999年には覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕された〔。 1999年に下肢麻痺となり、車椅子を使うようになる〔。 服役中、自身が『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原作者と主張する漫画家の松本零士と『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者は誰かをめぐって裁判となり、2002年3月に勝訴〔ヤマト裁判、松本零士はなぜ負けた? 泥沼法廷闘争は終わらず… ZAKZAK 2002年3月29日〕。翌年7月に控訴審で裁判外の和解が成立〔「ヤマト」著作権訴訟で和解成立 松本零士氏と西崎氏 asahi.com(朝日新聞)2003年7月29日 (インターネットアーカイブ)〕。 一連の事件では、2003年2月に懲役5年6ヶ月の実刑判決が確定〔。刑務所で服役した後、2007年12月に釈放。2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を製作・監督。〔〔。 2010年11月7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村父島の海で、遊泳目的で停泊中のウエスト・ケープ・コーポレーション所有の船『YAMATO』から転落、午後2時58分に医師により死亡が確認された〔宇宙戦艦ヤマトプロデューサーの西崎さん、船から転落死 - asahi.com(朝日新聞)、2010年11月7日。(2010年11月10日時点のアーカイブ)〕〔宇宙戦艦ヤマトの西崎さん船から転落死 - 日刊スポーツ、2010年11月6日。〕。。 2010年12月10日午後2時より、東京青山斎場にて「お別れ会」が開催され、歌手のささきいさおら約400人が参列した〔西崎さんお別れ会400人「海で死ぬ」口癖 asahi.com 2010年12月11日〕。 没後に公開された『SPACE BATTLESHIP ヤマト』『宇宙戦艦ヤマト2199』では、両作の原作である『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者である西崎が「原作者」としてクレジットされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 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