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オフリドのクリメント(古代教会スラヴ語: , ブルガリア語・マケドニア語: , 840年頃 – 916年)は、聖キリル(キュリロス)と聖メフォディ(メトディオス)の弟子であり、のちにオフリドの主教となった人物。正教会で聖人であり、亜使徒と呼ばれる。初めてスラヴ語で説教、著述活動を行った最初のブルガリアの主教であった〔。 == 生涯 == === モラヴィア宣教 === キリルとメフォディの弟子の一人として、モラヴィアへの宣教に両師とともにあたっていた〔Our Slavic Apostles (by Athanasius Pekar, OSBM, Byzantine Seminary Press, Publications Pittsburgh, PA 1969)〕。 モラヴィアは当初、自らと同じくローマ教皇の管轄下に入るよう要求するフランク人からの圧力に抗して、コンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教)の管轄の下にスラヴ語奉神礼を採用し、キリルとメフォディ、および彼らの弟子達はスラヴ語奉神礼を使用しつつ、コンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下で宣教を行っていた〔。 当初はローマ教皇もモラヴィアにおけるスラヴ語奉神礼を容認していた。当時、未だ東西教会の分裂は確定して居なかったが、モラヴィアをローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教のいずれが管轄するかについて見解の相違が既に発生していた。メフォディ存命中は、平和裏にローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教との間の調停が成立し、スラヴ語奉神礼も保たれた〔。 しかし885年4月6日にメフォディが永眠すると、弟子達の環境は一変する。大モラヴィアの支配者であったスヴァトプルク1世(Svatopluk I)を補佐するためにローマ教皇から送られていたニトラ司教ヴィヒングは、かねてよりキリルとメフォディおよび彼らの業績であるスラヴ語奉神礼を攻撃していたが、メフォディの永眠後直ちにローマ教皇のもとに走り、教皇ステファヌス6世からメフォディとスラヴ語奉神礼を非難する文書と、自身をモラヴィア首都大司教とする命令を得てモラヴィアに戻ると、聖メフォディの弟子達に弾圧を加えた。弟子達は捕えられて奴隷に売られるか流刑に処された〔。クリメントもまたヴェネツィアの奴隷市場に売られたが、東ローマ帝国の駐ヴェネツィア大使によって買い戻され、コンスタンディヌーポリに送られた〔。 のちにヴィヒングはスヴァトプルク1世により追放されるが、フランクの影響が強まったモラヴィアは、ローマ教会(のちのローマ・カトリック)の勢力下に入っていくこととなった〔〔ローマ教会の下に入った地域では、典礼においてラテン語のみを使用していくこととなる。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オフリドのクリメント」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Clement of Ohrid 」があります。 スポンサード リンク
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