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オヤケアカハチの乱 : ウィキペディア日本語版
オヤケアカハチの乱[おやけあかはちの]

遠弥計赤蜂の乱(オヤケアカハチの乱)は、1500年に八重山島大浜村〔「八重山島年来記」に基づく表記〕(現在の石垣市大浜)の豪族オヤケアカハチ〔Shinzato, Keiji et al. ''Okinawa-ken no rekishi'' (History of Okinawa Prefecture). Tokyo: Yamakawa Publishing, 1996. p57.〕と、琉球王国尚真王代)との間で行われた戦争である。琉球が勝利し、赤蜂を殺害した。
== 原因 ==
琉球の正史〔主に「蔡鐸本中山世譜」と「球陽」160号〕は、攻撃の理由として2点を挙げている。曰く、八重山は洪武年間より毎年朝貢していたがこの2、3年間断った。おまけに宮古を攻めようとした。だからこっちから攻めた。そして諸史料は一致して、八重山の朝貢が断たれたのは、大浜の赤蜂が謀叛したせいだと述べている。八重山の誰が毎年朝貢していたのかは不明である。
当時の宮古の最有力豪族は空広(ソラビー。いわゆる仲宗根豊見親)であった。家譜に曰く、「宮古の民俗は争いを好んだ。空広は考えて、これは米粟が豊饒なためである。主国に賦税をお願いして年貢を納めよう。こうして命令を請うて役人を置き、諸村に人頭税〔「忠導氏正統家譜」原文は「諸村令定毎丁賦数矣(諸村をして丁毎に賦数を定めしむなり)」人間毎に割り当てを定めた。ちなみに「丁賦」は人頭税の意味。〕を定めたところ、農業を怠らなくなった。このとき空広は八重山に航し、八重山の酋長に諭して曰く、相共に附庸の職分を守り、年々貢物の員数を定め、琉球に朝見し、臣子の忠誠を尽くそうとする意志を述べよう〔「忠導氏正統家譜」「于時玄雅航于八重山嶋諭彼之島酉長曰相共守附庸之職分而定年々貢物之員数而朝見于琉球述欲竭臣子之忠誠之意矣」「竭」とは「尽」と同義。〕」この時、大浜のアカハチ兄弟は同意せず、かえって宮古島を襲おうとしたので、琉球に訴えたとする。これは毎年朝貢していたという先の記述とは、さしあたって矛盾する。誰を指して八重山の酋長と述べているのかは不明である。
稲村賢敷は、以上の「空広が諸村に税制を定め、中山に年貢を納めるようにした」という記述と、「球陽(141号)」に尚真王の事績として載る「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ」を根拠として、八重山の何者かが朝貢していたのは認めつつ、これまでの朝貢関係が強化されて、八重山諸村に定租を課そうとした〔稲村「庶民史」pp.215〕とし、これがアカハチを挑発した、と説明している。
ところで「アカハチ兄弟」と述べたが、八重山の諸史料も一致して「アカハチホンカワラという二人〔「八重山島年来記」「大浜村赤蜂堀川原与申弐人之者変心を企・・・島中之者共押而身方江引入」〕〔「山陽姓大宗系図家譜」「当島大浜邑赤蜂堀川原二人之賊党対于王府企変心、四ヶ年年貢抑留、島民全部同心」山陽姓の元祖は宮良親雲上長光であるが、その先祖が長田大主の弟・那礼当であるとして、事績を記している〕」などとアカハチホンカワラは二人いたとしている。さらに「長榮姓家譜大宗」は、「ホンカワラ及びアカハチという者二人、〔「長榮姓家譜大宗」「堀川原及赤蜂者二人、絶貢謀叛衆皆従之」長榮姓は長田大主を元祖とする氏族〕」と明言し、ホンカワラと赤蜂は別人であるとの見解を示している。少なくとも宮古においては、かわらというのは人名として珍しくない〔稲村「倭寇史跡」pp.261以後、「童名がーらの起源と其の継承」と題する章節で、がーら(加和良、加阿良)の実用例が多数挙げられている。〕。空広の先祖には「祢間津のかわら〔宮古島旧記による表記。「忠導氏家譜正統」では「根間角嘉良天大之大氏」。かわらもがーらも同じである。天大は天太の表記がより一般的で、当時の首領格の称号。根間大按司の息子、目黒盛豊見親の父。空広の6代前の先祖。〕」という者がいる。
またこれら八重山の史料は、赤蜂に島民全部が同心した事も一致して記述している。
ところで本稿の以前の版を始めとして、「当時宮古が西表の古見を支配していた」とする見解がある。これは「慶来慶田城由来記」の次の記述を根拠とするものである。概略「一、沖縄がなしの手中にならざる時分に、宮古の豊見親は八重山全部を手中にしていた。そして家材木の供出を毎年要求していた。あるとき、木を山から引き出している途中に、村から豊見親が死んだと早使いが来た。皆は大喜びし、それらの木をそこらの川原に打ち捨てた」しかし第一に、当時の宮古の最有力者である空広の家譜には、八重山の全部どころか一部でさえ、支配しているという記述は一切発見できない。第二に、大浜永亘は、現地の考古学的資料において宮古の土器は少ない事、当時の航海技術の未発達などを根拠として、概略「この記述は、戦前ではなく戦後の一時期、空広の子供である祭金豊見親が八重山頭役を務めていた史実を反映したものである〔大浜pp.169〕」などと主張している。この祭金豊見親については、「球陽」162号に、衿驕自恣にして人民を暴虐したのでクビにしたと述べられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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